プレシアなのはフェイト

04



 憂鬱な曇り空は、いまにも泣き出しそうだ。
 雨は好きではない。なぜなら、フェレットは傘を差せない。濡れ鼠みたいにみすぼらしい姿で高町家に帰るのは、色々な意味で遠慮願いたいところだった。
 だというのに、ユーノは寒空の下、ビルの屋上から海鳴の町並みを眺めている。
 一番遠くにあるのは海だ。次に住宅地があり、そしていまユーノがいるビルの森へと至る。反対側に振り向けば、海の代わりに山があり、他はだいたい同じだった。
 海鳴市はあまり大きくないが、その分のどかな土地である。定住するなら、きっととても暮らしやすいだろう。各地を飛び回ってばかりの自分だからこそ、町を見る目はあるとユーノは自認していた。
 だが、この町の良さが分かるから、ジュエルシードによる被害を減らそうとしているのかというと、決してそうではない。
 ユーノは最初、魔法を使えるのが自分だけだという義務感と、ジュエルシードに関わる者としての責任感とで、ジュエルシードの回収を始めた。もちろん、管理局に通報し、プロフェッショナルである彼らが駆けつけるまで、という条件を自分に課して。しかし、管理局の艦が現れる前に自分一人の力では対応しきれなくなり、なし崩し的に現地の協力者まで得て回収に当たることになった。
 これが、この世界の暦でいうところの、ここ半月ほどの出来事である。
 この短い期間の内に、ユーノがジュエルシードを集めて回る理由は大きく変化した。なのははユーノの手伝いではなく自分自身のためにレイジングハートを握るようになったが、ちょうどそれを鏡に映したかのように、ユーノは義務感と責任感によってではなく、なのはを手伝うために持てる力を振るうようになったのだ。
 転機は明らかに、黒衣の少女に追いかけ回されているところを助けられたときだった。
 あのとき、なのはが何度も何度も挑みかかっていった理由はわからない。なのは自身、なぜあの少女に拘るのかわかっていない様子だった。けれどもユーノは、自分がなのはを助けようと思った理由ならわかる。自分がなのはに惹かれているということなら、誰よりもよくわかっていた。

「でも、僕のことフェレットだと思ってるみたいだしなあ……」

 人間だと明かすと、今までやってきたことの中には、意味が大きく変わってしまうことがいくつもある。たとえば、男が覗くことは決して叶わないであろう女性の私生活全般や、男が触れることは決して叶わないであろう無防備な女性の身体は、ユーノがフェレットであるからこそ許されてきたものだった。
 いっそのこと、使い魔みたいにフェレットが真の姿だということで押し通そうか。

「そうなると、問題は異種族間での……、無理だろうなあ。……はぁ」ユーノは鈍色の空を見上げた。「あ、黒」

 ようやく近づいてきたパンツの主が、こちらをじっと見下ろしていた。
 それは、少女だった。
 少女は、例の魔導師だった。今日はバリアジャケットではなく、私服を着ての登場である。
 それにしても、まだ十かそこらだろうに黒とは、侮れぬ。下から見れば、光が透けて眩しい白のスカートとの対比が実に美しいではないか。
 敵ながら、なかなかどうして天晴れである。

「オウフ」ユーノは踏みつけられた。いつの間にかこの場所は結界に捕らわれていたので、フェレットを虐待する少女の図が衆人環視に晒されることはなさそうだった。
「あなたの主はどこ?」少女は目だけ動かして周囲を見た。「また、あなた一人?」

 彼女の言葉が示すとおり、二人だけで会うのはこれが初めてではない。二日前にも、ユーノと少女は出会っていた。示し合わせてではない。二勢力が同じものを狙っていれば、必然的に顔を合わせる確率は高まる、ただそれだけのことだ。
 そして、標的が一つしか存在しなければ、得る者と得られない者とに分かれるのもまた必然。残念ながら前回は譲ったユーノだったから、今回こそは先を越そうと思っていたのだが、遠くからじっと見る視線に気づいたとき、それはすっぱり諦めていた。

「僕は使い魔じゃないよ」答えつつ、考える。どうして少女がコンタクトを取ってきたのかを。そして、どうしてそれが今なのかを。

 いままで、彼女がこちらに対する興味を積極的に示したことはない。それは、なのはがいるときでも、いないときでも、変わらない。
 ……つまり、こちらの行動に対する反応ではない?
 何かしらの心変わりがあったのか、それとも、こちらの目には映らないところで、状況に変化があったのかもしれない。

「それじゃあ、あの人に連絡は?」少女が尋ねる。あの人。なのはのことだ。
「いますぐには取れない」取らない、というのが正しいのだが、もちろんそんなことは口にしない。「伝言ならできるけど」
「そう……、だったら伝えて。以前と同じ条件でなら、あなたと戦ってもいい、と」
「同じ条件……、賭けのことだね?」

 少女は頷く。その動きが、彼女の足の裏からも伝わった。
 この時点で、ユーノはほとんど確信した。相手は、焦っている。
 ジュエルシードを輸送していた船を攻撃したのは、彼女もしくは彼女たちだ。それは、回収に現れた時期から見て、まず間違いない。とすると、彼女たちを焦らせるのは管理局だろうか。ただでさえロストロギアの密猟者なのだ、その上管理局の輸送船を撃墜したとなれば、厳罰は免れない。時期的にも、管理局が混乱を収め、動き出す頃かもしれなかった。
 どちらにせよ、焦るということは、時間が最大の敵であるということだ。ユーノたちは、逃げに徹し、余裕があれば妨害するだけで、敗北を突きつけることができる。
 敗北を突きつけることだけなら、できる。
 相手の敗北条件と、こちらの勝利条件が、噛み合っていないのだ。
 ユーノがなのはの意志を最優先すると決めた以上、勝利とは、なのはが自分自身の力でこの少女と意思疎通することである。ジュエルシードを集めるだけでは決して勝利にならない。

「僕を人質にすれば、僕たちが持っている六つすべてを手に入れられるんじゃないかな?」ユーノは言った。「僕はほら、こうしていまにも踏み潰されそうだし」
「いま、六個?」
「君の方はいくつ?」
「七」彼女は答える。「でも、手持ちは一つ。あなたがここで退くなら、二つになる」
「退かなくてもなるよね」ユーノは苦笑。

 ジュエルシードを追いかけてきたから、遭遇した。逆にいえば、偶然でもない限り、二人が出会う地点はジュエルシードの近くに限られる。そして、出会ったならば少女の勝ちだ。ユーノがジュエルシードを手に入れるためには、出会うより早く封印、回収してから、一刻も早く逃げる必要がある。今回は、少女の方こそがジュエルシードを囮にユーノを待っていたので、回収して逃げることは当たり前だができないことだった。

「場所と時間は?」ユーノは尋ねる。「できれば、何日か時間を置いてほしいんだけど、どうかな?」
「……どうして?」

 どうやら彼女は、自分がなのはにどれだけのダメージを与えたのか理解していないらしい。
 だったら、理解させないままでおこう。

「正直にいうと、準備の時間が欲しいんだ」ユーノは意識してゆっくりと喋る。「条件こそ賭けの形をしているけれど、前回と同じように勝ち目がないのでは、賭けにならないよね。つまり、こちらには、戦う意味がない」

 少女は厳しい表情になり、しばらく黙る。

「二日後」
「四日後じゃだめかな?」ユーノは即座に切り返す。
「だめ」少女も即答した。それから訂正する。「……三日後の二十三時は?」
 あまり焦らしすぎても上手くいかないか。そう考え、ユーノは「ありがとう、わかったよ」と了解した旨を告げる。「あ、もちろん、ちゃんと伝えるという意味だよ。来ることを確約したんじゃない」
「…………」少女は騙されたような顔になった。
「いや、ごめん、そうだなあ、いまのは僕の言い方が拙かった。不慮の事故やなにかで、来たくても来られないことがあるかも、って話。他になにか伝えることはある?」

 少女は首を振った。

「それじゃあ、三日後の二十三時に、この場所で」ユーノは最初から待機状態にして伏せておいた転送魔法を起動し、一瞬で場を離脱した。小動物は、逃げ足が速いのだ。







 色々と忙しい身には、携帯電話は欠かせないアイテムだ。予定と予定のちょっとした間隙を縫うようにして、友人と連絡を取ったり、あるいはこなさなければならない作業を行ったりと、時間の合理的な使い方を提供してくれる。ただでさえ高性能なのに、その気になれば、自宅の強力なマシンと連携して非常に重たい処理までもこなせるのだから、使用頻度と併せて考えれば、携帯電話ではなく、電話機能を搭載した携帯型のコンピュータと呼称するべきかもしれなかった。つくづく近ごろの技術の進歩には驚かされる。
 そして、それが既に手放せない存在になっているから、考えてしまう。これのなかった時代、どのようにして世界は回っていたのか、と。
 現代よりも、ずっと回転が遅かったに違いない。一人の人間が生涯でこなせる作業量は、比べものにならないほど少なかっただろう。しかし、代わりに、求められる作業量も少なかったはずだ。
 もちろん、いまの生活はとても幸せだ。いくらかの不満と、それを我慢できるだけの幸せが詰まった、カラフルな風船みたいな日々である。けれども、もしかしたら、古い時代に生まれた方が自分は幸せだったのではないだろうか、とも思うこともある。
 自分にとっての幸せとは、家族がいて、友人がいて、自分がいて、穏やかな日常があるということだ。いまは機械の力で忙しさを誤魔化して、穏やかな日常を作り上げているが、それが遠回りでしかないようにときどき思えてしまうのである。
 携帯電話が鳴って、それを手に取るまでの三秒間で、月村すずかはそんなことを夢想した。その内容は一瞬で揮発して、思い出せなくなる。いつものことである。
 のぞき込んだディスプレイには、相手の電話番号が表示されていなかった。相変わらず、どういう仕組みなのかはわからない。しかし、誰からかかってきたのかは知っている。こうなるのは一人だけ。
 すずかは通話ボタンを押し、スピーカーを耳に当てた。

「あ、すずかちゃん?」予想通り、久しぶりに聞く声だった。「八神です。いま大丈夫やった? えっと……」
「うん、大丈夫だよ」すずかは答える。「こっちはいま、午後三時過ぎ。今日は土曜日。だから、こんにちは、だね」
「そか、こんにちは。それにしても、あー、土曜日、サタデイ、ザムスターク。……あかん、昼も夜も昨日も今日もないような生活してるから、完全に狂っとる」はやての声はどこか疲れていたが、口調は冗談めいていた。「ごめんなー、気づけばあっという間に時間が過ぎてて……、二ヶ月ぶり?」

 身近にいる親友二人とはまた違った小気味の良さが、彼女との会話にはある。すずかはそれが好きだったし、それ以上に、色々なことを喋っているときのはやてが好きだった。図書館で知り合ったとき、すぐに好きになった。だから、はやてをなのはやアリサにも紹介した。皆はすぐに仲良くなって、けれどもやがてはやては引っ越してしまったのだ。

「忙しいのはわかるけど、体に気をつけないと駄目だよ」
「あはは、体壊しとる暇もないくらい忙しいから平気平気……、と言いたいところやけど、最後に寝たの、いつやったろか」
「もう」すずかは怒る。はやてが自身の価値を低く見る傾向にあることを、長い付き合いで知っているから、余計に心配だった。それについ最近、なのはが体調を崩したばかりだ。少なからず敏感になっていた。
「すずかちゃんが心配してくれてるんはわかってるんよ。こうやって話した後はいつも、体休めようって気になるもん。リラックスできるというか、切羽詰まった感じがなくなるというか……。ああ、ダメや、言ってるそばから眠なってきた。すずかちゃんは相変わらず効果抜群やなあ、ほんまに。電話越しでこうなるんなら、実際に会ったらアイスクリームみたいに溶けてしまうかも」

 就寝前のハーブティー代わりにされるのもどうかと思ったが、すずか自身、はやての声を聞くことで元気になれるし、彼女が自愛という言葉を思い出すきっかけになれるのならば、いつでもどこでも電話を受けていい。誰かが害を被るわけでもない。
 それに、いまはもっと気になることがあった。

「はやてちゃん」すずかは慎重に発音した。「なにかあったの?」

 幽かに息を呑む気配、次いで、沈黙が電波に乗って伝達される。
 先ほどまでの饒舌さが、無言を際立たせていた。

「ん……、それは、生きとる人間やったら何かしらあるやろうけど」誤魔化すように言ってから、はやてはため息をつく。受話器から聞こえたそれは乾いていた。「重症やね。うん、ちょっと、海鳴に足運ぶことに決まって、ナイーブになってるんよ」
「え? か、帰ってくるの? いつ? 本当に?」すずかは自分でも驚くほど大きな声できき返していた。座っていた椅子から腰が浮いていた。

 海鳴を去って以降、はやては常に世界中を移動しているらしく、所在地というものがない。そんな彼女に連絡を取るには、滅多に帰らないというイギリスの拠点に手紙を送るか電話をかけるかして、後は返事を待つしか手がなかった。だから、こうして彼女と会話できる短い時間は、実は宝石に勝る贅沢品なのである。
 そんな状況で、直接会えるかもしれない可能性が目の前に差し出されたのだ、はやての憂鬱声にもかかわらず喜んでしまうのは、ねこじゃらしを前にした子猫がエキサイトするのと同じくらい必然だった。

「たぶん一週間もかからへんと思うんやけど」はやては再びため息。「重たい体引きずって帰った挙げ句、すずかちゃんにも会われるかわからへんなんて、ホンマこの世は地獄やで! フゥハハハーハァー……はぁ」
「は、はやてちゃん?」
「……せやから、どちらにしても、確定した段階でもう一度こっちから連絡しますぅ」萎びた植物みたいに元気のない声だった。
「あ、うん」すずかは思わず返事をする。
「報告は以上であります、サー」
「えっと、それじゃあ、楽しみに待ってます。あ、でも、無理は絶対にしちゃだめだよ?」
「は、無理は絶対にいたしません、サー!」力強く言ってから、はやては吹き出した。つられて、すずかもくすくす笑う。

 よかった。どうやら、少しは力になれたようだ。







 ユーノは、妻が欲しがっていた限定品のジュエリーを手に入れた夫のように喜び勇んで報告した。それを聞いたなのはは、飼い犬がしっかり芸を覚えたときのアリサのように喜んだ。

「三日後だから、なのはの休養も十分、とは言えなくても、体調は随分良くなると思う。でも、それまでは絶対に無理をしないこと」
「うん、わかってるってば」

 とは言うものの、なのはは今すぐにでも魔法を使いたくてうずうずしていた。ユーノが釘を刺したのは、こうなると予想していたからこそなのだろう。
 だが、なのはにも言い分がある。

「このままだと同じように負けるだけだから、ちょっとだけでも……」
「だったら理論の勉強をしよう」
「理論はじっくり時間をかけて取り組むものだって言ったの、ユーノ君だよ」
「一日中、朝から晩まで勉強ができるって滅多にないことだよ。それが三日も連続でなんて、僕は羨ましいけどなあ」

 どうやら彼は本気で言っているらしい。恐ろしい生物を前に、なのはは戦慄を禁じえなかった。

「それは論点がすり替わってる」なのはは言う。「三日後に効果が出るわけじゃないでしょ?」
「いや、なのはこそ論点がずれてる。なのはは別に、戦いに勝つ必要はないんだ」
「でも勝たないと、あの子は話してくれない。そういうルールなんだから」

 何度も何度も食らいついて譲歩を引き出したときのように、粘り強く挑んで相手が折れるのを待つ手もあるが、それは逆効果にもなりえる。できればプラス方向の感情を持ってもらいたいのが、人間の本能だろう。

「うーん、それについてはね、僕、ちょっと前から考えていたんだけど……」

 ユーノは言葉を切り、しばし視線を彷徨わせた。
 直立した体が、風に吹かれた草のようにゆらゆらと揺れている。細いヒゲがぴくぴくと震え、黒い鼻がひくひくと動いている。
 それを眺めるなのはは、思考に必要なリズムを取っているのだろう、と推測した。自分なりのリズムを確立した人間は、物事を考えるのが上手い。

「うん」彼は一つ頷いて、視線をこちらに向けた。「ジュエルシードと交換で、という形なら、戦わずに話し合いに応じてくれるんじゃないかな」
「え? ジュエルシードと?」なのはは驚いた。「だって、それじゃあ」
「確かに危険だけど、……たぶん、もうすぐ管理局が来るから」彼はじっとなのはを見つめた。「僕の言ってること、わかるかな」
「えっと……、急がなきゃいけない?」
「それもある。じゃあ、どうして急がないといけなくなるんだろう」
「それは……、管理局が来るから」

 ユーノが吹き出した。

「ひ、酷いよ」なのはは頬を膨らませた。「ちょっと待ってて、すぐに正解を思いつくから」
「ごめんごめん」

 謝るユーノから視線を外し、なのはは目を細めた。なにかを見ているわけではない。なにかを見るように目を細めるという表現があるが、なにかを見るときは目を細めたりしないものである。
 焦点が合わずにぼやけた視界の中で、なのはは考える。
 管理局、つまり警察のような組織が来ると、なにが起きるのだろうか。
 まず、管理局はジュエルシードを集めようとするはずである。人海戦術か、それとも少数精鋭によるのか、はたまた異世界の機械を用いるのかはわからないが、少なくとも封印して回収する瞬間には、管理局員が現場に立つことになる。そこには、同じくジュエルシードを求める黒衣の少女も現れるかもしれない。そうなれば、管理局としては事情を聞くくらいはするだろう。すると、少女が正直に答えても、黙秘を貫いても、逃げ出しても、彼女の身柄は管理局に拘束されてしまう。
 少女が現場に現れなかったとしたら、どうなるだろうか。これも、結果は変わらない。事情を知るユーノやなのはが管理局に説明を求められ、やはり少女は追われることになるのである。

「捕まっちゃうかな……?」なのはは呟き声できく。
「次元航行部隊はかなり優秀みたいだから」ユーノは答える。「それに、あの子はジュエルシードを七個集めたのに、手持ちは一つだと言っていた。つまり、背後に別の誰かがいるんだろうけど、これは組織ではなく個人だと思う。実際に動いているのはあの子一人だけみたいだからね。その黒幕も、たぶん芋づる式に捕まることになる。そのとき、ジュエルシードも一緒に管理局の手に戻ることになるはずなんだ」彼は息をついた。「……というのが希望的観測であり、言い訳であって、本音は、なのはじゃあの子には勝てないだろうから、ジュエルシード一つ無駄にするだけかなあ、と」

 なのはは顔をしかめた。しかし、勝てないというのには半ば以上同意もした。

「あの子が管理局に捕まったら、話をすることはできなくなる。それまでに急いでどうにかしないといけない。でも、そんな短い期間では、なのはが勝てるようにはならない。だから、話をするには別の方法を考える必要があって、その内の一つが、さっき言ったジュエルシードと引き換えにするやり方なんだけど……」彼は天井を見上げた。「既に賭けの賞品として一つ渡した身で言うのもなんだけど、あの一つでいくつかの世界が滅びてしまう可能性もないわけじゃないんだ。もちろん、あのときは全部奪われるより一つで済ませただけ良かった。でも、今回は約束をなかったことにすれば、あの子にジュエルシードを渡すことにはならない」

 つまり、極論すれば、大勢の人の命か自分のしたいことか、どちらかを選ばなければならないということ。
 そんなの、選ぶまでもなく決まっていた。
 ここに、なのはの進みたい道は潰えた―――かと思ったそのとき、更にユーノが続けた。

「けれども、だからといってここで約束を反故にすると、以降の賭けも成立しなくなる。そうなると、僕たちが持っているジュエルシード全てを奪いに来る可能性もある。僕はこれが最悪のパターンだと思う」
「それじゃあ、つまり―――」

 なのはは首を捻って考えた。
 つまり、どうすれば一番いいのか。
 彼女が答を出す前に、ユーノが口を開いた。

「賭けに乗って戦えば、負けてジュエルシードを取られるだけ。賭けに乗らず戦わなければ、襲われてジュエルシードを全部奪われるかもしれない。どちらの方法も、いずれ管理局があの子を逮捕するから、意思疎通はできなくなる。それに、こちらがなにか得られるような事態には、どう転んでもならない」彼は息をついた。「だったらジュエルシードと交換で話を聞かせてもらえるよう交渉するのが、今のところ一番いいんじゃないかな」
「なるほど……」
「もちろん交渉が失敗すれば戦いになるだろうけれど、そうなれば三日程度の付け焼き刃じゃ焼け石に水、なんの役にも立たないから、それなら将来の可能性を広げるために、魔法の理論でも学校のテキストでも、とにかく勉強に打ち込んだ方が得だと思うよ」
「うわ……、そういえばそんな話だったね」
「僕は最初からそのつもりで話してたよ」







 ここしばらく学校を休んでいたなのはは、取り残されないようしっかりと自宅学習に励んだ。しかし、それだけに取り組めるほど勉学を愛しているわけではなかったので、息抜きを欲しがった。魔法を使いたかったのである。これに反対したのはユーノ。その彼も最後には折れて、彼の魔力でレイジングハートを起動、戦闘シミュレーションを行うという妥協案に落ち着いた。
 そうこうする間に時は過ぎ、約束の日が来た。
 なのはは約束の場所に、指定された時間の一時間前に赴くことにした。これはユーノの提案に従ってのことである。彼は罠や伏兵の存在を警戒していた。なのははそこまでする必要はないと思ったが、彼が一人で先行して安全を確かめてくるというので、それを阻み、仕方なく二人で一緒に家を出た。それが二十一時半のことだった。
 学校を休み続けている娘がそんな時刻に外出すれば、真っ当な両親ならば心配する。なので、二人はユーノの転送魔法で外に出て、そこから徒歩で目的地を目指していた。

「うう……、なんだか見られてるよ」なのはは呟く。言葉に紛れて、白い息がこぼれた。
「なんか、その……、ごめん」なぜかユーノが謝る。

 家を出るとき靴を持ち出せなかったなのはは、バリアジャケットを着て夜の町を歩いていた。
 真っ白なワンピースに青いライン。胸元には真っ赤なリボン。しかも腕にはフェレットを抱えている。
 目立たない方がどうにかしていると言えよう。

「バリアジャケット、寒くないのはいいんだけど」
〈白は夜だと余計に目立つね〉ユーノが念話に切り替えて言う。〈逆にあの子は、夜だと視認が難しそうだ。まあ、いまさらデザインを変える余裕はないから仕方ないけど〉
〈ユーノ君はいいよね〉
〈そうかな?〉
〈目立たないし、目立っても恥ずかしくないでしょ?〉
〈なのはも慣れると気持ち良くなるよ〉
「な、ならないよ!」

 思わず肉声で叫ぶと、ぎょっとしたような視線が周囲から向けられる。なのはは慌ててうつむいて、早足でその場を離れた。
 頬が熱い。

〈そんな変態さんみたいになるわけないよ!〉
〈最初はみんなそう言うんだけどね〉独り言のような口調でユーノ。〈そもそもバリアジャケットを日常的に展開できる魔導師があんまり多くないから、その辺も関係あるんじゃないかと思うけど、どうだろう〉
〈知らない!〉
〈うん、もうすぐ着くから次の裏路地に入って。そうしたら僕が結界を張る〉
〈人の話聞いてよ……〉

 なのはは一度後ろを振り返ってから、素早くビルとビルの隙間の暗闇に身を滑り込ませる。
 同時に、世界が切り替わる感覚。

「もう大丈夫。誰にも見られないよ」
「わかった」なのはは頷き、地を蹴った。

 久しぶりの飛翔だったが、違和感はない。むしろ失われていたものを回復したかのように、安堵に近い感覚。
 ユーノが追いつき隣に並ぶ。

「このビルの屋上が約束の場所だよ」彼は軌道をわずかにずらし、片方のビルに近づいた。

 二人は勢いよくビル上空へと駆け上がり、屋上を俯瞰する。

「まだいないね」

 なのはは無人の屋上に降り立った。
 少し歩き回り辺りを観察してみるが、申し訳程度にプランターや植木鉢が置かれているだけ。それも黒く朽ち果てた植物の残骸しか見当たらない。いまは一月の半ばである。枯れてからずいぶん経っているはずなので、長く放置されていると見るのが妥当だろう。得られた情報はそれだけだった。
 遅れて着地したユーノを見ると、彼はちょろちょろと機敏に動き回り、なのは同様に周囲を探っていた。

「あ……、なのは」
「どうしたの?」

 呼ばれるままに近寄ると、そこには手摺りに貼り付けられたA4サイズの紙切れ。
 そこにはこう書かれていた。

『指定場所の変更。海鳴臨海公園へ』



 まるで誘拐事件の身代金引渡しみたいだなあ、などと考えながら臨海公園に向かったなのは。再びコスプレ姿で夜の街を練り歩き、後にその写真がメールで知人たちに行き渡るのだが、それはまた別の話である。
 細かい場所までは指定されていなかったため、彼女は公園内を散々歩き回るハメになった。場所を間違えていないかと不安に思って、回収してきた書置きを読み返したのも一度や二度ではない。

「ね、ねえ、ユーノ君?」なのはは足元を歩くユーノを見て、彼が傍にいることを確かめた。
「どうかした?」
「ううん、なんでもない」

 このやり取りも何度目か知れない。
 夜の暗闇は木々の隙間を駆け抜けていく風音と手を組んで、おどろおどろしい様相を演出していた。更に、人のいる普段の光景を知っているだけに、無人の空間に自分の足音だけが規則正しく響く状況が不気味でもある。

「ユーノ君?」
「うん?」

 ユーノは声をかけられるたびに律儀にこちらを見上げて返事をしていた。
 少しも迷惑そうでないのが逆になのはを心苦しくさせる。

「ううん、なんでもないよ」
「さっきからどうしたの?」ユーノが苦笑する気配。「緊張してる?」
「え? 緊張?」思いもしない指摘になのははびっくりした。
「あれ、違った?」
「うん、緊張じゃなくて……」
「そういえば屋上では普段どおりだったね。それじゃあ、うーん、なんだろう……」彼は考える素振りを見せる。

 ユーノが答を出す前に、なのはは白状することに決めた。

「ユーノ君は平気なの? 夜の公園とか」
「ああ、そういうこと。特にこれといって思うことはないよ。ほら、真っ暗な遺跡の中で実際に追いかけ回されたりすることもあるから、場所が開けてるだけ安心というか」
「へえぇ……」なのはは素直に感心した。「それじゃあ私は成れそうにないなぁ、考古学者」
「他にも、ちょっと囓ってる民俗学というか文化人類学というか、そういうので色々な部族の生活圏に長期間お邪魔して調査することがあるんだけど、やっぱりあるんだよね」
「あるって?」
「特定の道や山を歩くとき、ふと気づくと間違いなく背後に誰かいるんだけど、絶対に振り返ってはいけない、声をかけてはいけない、もし振り返ると―――、みたいな伝承。あ、なのは、振り返らない方がいいよ」

 なのはは歯を食いしばり涙目でユーノを睨んだ。
 そのとき、道の右脇の茂みから、
 物音がした。

「……ッ!?」電流が流れたかのようになのはは跳ねた。喉が引きつって悲鳴も出ない。しかし、反射的に音の出所に顔を向けてしまった。

 音は続く。茂みが揺れる。
 しかし、知性を感じさせるリズムではない。恐らくは公園に住む動物だ。彼女は必至にそう思おうとした。
 瞬間、首筋にひやりと冷たいなにか。

「ヒ……ッ!?」

 今度こそ悲鳴を上げかけたが、それより先に別の声が背後から。

「動くな」
「ぐぇ」わずかに遅れて足下からユーノの声。なのはが視線だけで下を見ると、彼は黒いブーツに踏み潰されていた。天誅だろう。

 次に、やはり目だけを動かして首もとを見ると、そこには外灯の光を受けて鈍く輝く黒い金属。恐らくデバイス。
 背後に立つのは黒衣の少女。
 先ほどのユーノの話に従ったわけではないが、なのはは振り返らず、声をかけず、ただ待った。
 数秒の沈黙。

「ごめんなさい」少女が声を出した。「ジュエルシードを全てください。そうすれば、危害は加えない」
「いいよ」なのはは答える。
「時間がないんで…………」台詞は予め準備されたものだったのだろう、予想外の返事を受けて少女は言葉を止めた。
「いいよ。全部あげる」

 ユーノが声を出すが、言葉になっていない。内容は予想できる。
 全てのジュエルシードを渡すのは危険すぎる。元々、一つのジュエルシードと交換するつもりだったのだ。
 けれども、賭けに乗るつもりでも乗らないつもりでも、ジュエルシード一つと交換で話を聞かせてもらうつもりだったとしても、こうして背後から杖を突きつけられた時点で負けだ。卑劣とも取れる手段を選んだことが、焦りと覚悟の証拠。こちらが下手なことをすれば、首を落とされる可能性もある。つまり、全てのジュエルシードを奪われることは決定している。ならば、無償で渡すか釣り合わずとも対価を得るか、どちらが良いかも決まっていた。

「全部、あなたにあげる。その代わり、お話を聞かせて。私の話を聞いて」

 困惑の気配が、首に触れたデバイスから伝わってくる。

「どうして?」少女がきいた。
「まずはお名前を教えて」なのはが言う。

 首筋を撫でるように、少女のデバイスが上下に動く。

「……フェイト・テスタロッサ」
「フェイトちゃん、って呼んでもいい? 私は高町なのは」
「高町……なにょは……」

 もしかして外国人には難しい名前なのだろうか。
 なのはは悲しくなった。

「な・の・は」なのははもう一度言った。
「NANOHA」
「な・の・は!」
「ナノハ」
「な・の・は!」
「なのは」

 ゲシュタルト崩壊を起こしそうななのはだった。

「うん、そう。ありがとう」
「ジュエルシードを―――」
「待って。他にも、どうしてジュエルシードを集めてるのかも教えて」ここぞとばかりに情報を引き出しにかかる。「誰かに頼まれたの? 振り向いてもいいかな」
「だめ」フェイトはデバイスに力を入れた。「ジュエルシードは……」
「うん」
「……母さんの大切なものだから、母さんのために」
「お母さん?」

 頷く気配。
 なのはは更に質問を重ねようと口を開き、

「時空管理局執務官です。そちらの魔導師、デバイスを捨てなさい」

 空気を読まない闖入者に妨げられた。






「時空管理局執務官です。そちらの魔導師、デバイスを捨てなさい」

 その声を聴いた瞬間、フェイトは覚った。これまでの質問は時間稼ぎだったのか、と。
 執務官はこちらにデバイスを向けている。その先端には、即座に発射できるよう待機した魔法。

「え……? うそ」なぜか高町なのはが驚いたように呟く。
「早く!」執務官が強い口調で言う。

 フェイトは小さく舌打ちした。してから、母なら品がないと言って怒るかもしれない、と場違いにも思った。

「わかりました」フェイトはデバイスを引く。〈アルフ。こっちで合わせるから、執務官をお願い〉
〈はいよ。3、2、1〉

 ゼロのタイミングで、先ほど高町なのはたちの目を釘付けにした茂みからアルフが飛び出した。フェイトはそちらを見ない。それが彼女の信頼の証である。しかし、フェイト以外の人間は誰一人例外なくアルフに注意を奪われた。これ以上ないほど瞭然たる隙が、フェイトの望んだ通りの形で訪れたのだ。
 アルフが執務官を杖の防御ごと蹴り飛ばすと同時、フェイトはその場で独楽のように一回転、遠心力を乗せたバルディッシュで高町なのはの頭部を打ち抜いた。手応えはバリアジャケットを貫通しなかったと訴えるが、問題はない。殺すつもりは元よりない。ただ無力化できればそれでよかった。よろめく高町なのはの胸元に手を伸ばし、ペンダントトップの赤い宝玉を強引に握る。それはデバイス。しかし真の目的は、その内に格納されたジュエルシード。抜き出す余裕はないので、デバイスごと奪い去ることにした。自動的に展開される防御術式を魔力任せに突き破り、ついに強制的にモードリリースに持ち込んだとき、視界の端で執務官が地面に墜落した。対照的に、フェイトは地面を蹴って飛び上がる。そしてアルフの隣に移動すると、彼女が用意していた多重転送でその場を離脱した。

「やった!」フェイトは拳をきつく握りしめる。そこには手に入れたデバイスの感触が確かに存在した。「やった……!」

 湧き上がる歓喜。
 醒めやらぬ興奮。
 それは、これまでにない決定的で圧倒的な勝利の味だった。







 次元航行艦に招かれたなのはは、まず検査を受けた。頭部への強い衝撃を受けたことから、本人に自覚症状がなくとも検査が必要だと判断されたためだった。その間にユーノがこれまでのことを説明しておいてくれるというので、なのはは彼に任せることにした。
 なのはは検査を受けながら、フェイトのことを考えていた。
 あのとき、フェイトは母のためだと言った。それに、ジュエルシードが母の大切なものであるとも。しかし、ジュエルシードは管理局が保管していたもので、最初に発掘したのはユーノだと聞いている。
 この矛盾に加えて、フェイトがジュエルシードを集めていることを、フェイトの母親は知っているのか、という疑問が残る。
 知らないのならば、知らせなければならない。だが、フェイトの手持ちのジュエルシードが一度減っていることをなのはは知っていた。そこから導き出されるのは、それまでに集めたものを誰かに預けている可能性。もちろん、どこか別の場所に隠して置いているのかもしれないし、誰かの正体が母親ではないかもしれないが、現在なのはが保有する言語的・非言語的を併せた情報は、フェイトの母親がフェイトに集めさせているという仮説を支持していた。
 一通りの検査が終わるまで一時間ほどかかった。結果が出るには、更にもうしばらくかかるという。
 実は一度、結果を待っているときに、この艦の艦長がなのはを呼び出すために連絡をよこしたが、検査を担当した医師が怒り、逆にこの場に来いと言い返すということがあった。これに慌てたのはすぐ傍で通信を聞いていたなのは本人だった。しかし医師は構わず、艦長もあっさりと従ってしまった。ユーノもついてくるという。かくして白いベッドの住人となり人を待つ彼女であったが、これがなかなかどうして落ち着かない。白いシーツは清潔そのもので、肌触りは硬い。同じく背を預けるベッドも自宅のそれと比べれば随分と硬く、どこか窮屈に感じられた。そこに慣れない環境という要素を付け加えれば、リラックスどころか気が張って仕方がない。なので、部屋の扉が開いたとき、なのははほっと一息ついたものだった。

「なのはちゃん、頭大丈夫やったー?」手をひらひら振るのは、八神はやて。「ああ、起き上がらんでえーよ」

 部屋に入ってきたのは三名。はやてと、フェレットと、そして残る一人が艦長なのだろう。

「ううん、大丈夫」なのははベッドの上で上半身を持ち上げる。「えっと……」ききたいことが多すぎて、なにからきけばいいのかわからず、彼女は状況に任せることにした。
「ほんならまずは紹介しとこか」はやては隣の人物を手で示す。「こちら、この艦の艦長にして私の上司、ハラオウン提督です。そんで、こっちが―――」今度はなのはを指す。「私の古い友人、高町なのはちゃんです。ええと、いまはなのはちゃん、大学生やったよね?」

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