プレシアなのはフェイト

03



「いい家族だね」ユーノが言った。彼は夕食に丸いビスケットを囓っている。短い両腕で大切そうに食料を抱える姿は大変愛らしく、高町家のちょっとした癒しになっていた。
「うん」

 なのはは自分のベッドにうつ伏せになり、枕に顔を埋めた。夕食の席に出向き、食事を取り、自室に戻ってきただけでヘトヘトになってしまったのだ。あと少しだけダイニングルームが遠ければ、途中で立ち往生していたかもしれない、と真剣に思う。
 日中に体を休めてどうにか取り戻した運動能力は、しかし、亀のような鈍い動きしかなのはに許さず、それが家族の皆を心配させた。そして、家族の誰もが理由を問い、答えられないなのはが言葉を濁せば、皆それ以上きこうとはしなかった。父などは追求の代わりに、「急に激しい運動をするのはよくないぞ、明日は丸一日休んだ方がいい」と助言して、事情はともかく原因は見抜いているようだった。彼は剣をやるので、人体における怪我や疲労に関しては、下手な医者よりも詳しいのかもしれない。そして、それはなのはの兄や姉についても同じことが言える。高町家―――正確には父の家系だが―――は剣術家の家系なのである。だというのに、その血を引いているはずの自分が運動音痴で、いま、このようにして疲労で身動きがとれないあたり、なのはには酷く納得がいかなかった。もちろん八つ当たり的な思考である。しかし、これから風呂に入りに行かなければならないことを思うと、憂鬱になるのも仕方がなかった。
 はふぅ、と息を吐いて脱力し、しばらくそのままでいる。
 部屋にはクッキーを囓る細かい音と、暖房が空気を暖める音。
 なのははあくびをする。
 動きたくない。眠ってしまいたい。でも、お風呂にも入りたい。
 このような、どちらに転ぶも自由でありながら時間制限が存在しない状況は、そこから抜け出すのに莫大なエネルギーを必要とする。二度寝をするべきかしないべきか悩む状況と同じだ。眠れもせず、かといって目を覚まして何か有益な活動をするでもなく、ただ無為に時間が経過していくことはしばしばある。
 最適解をたぐり寄せるための知性は、その大部分が睡魔に削り取られてしまっていた。なのはは残りわずかな意識でもってどうにか首を動かし、薄く開いたまぶたの隙間からユーノを見た。

「ユーノ君は?」
「うん?」ユーノは半分ほどの大きさまで削れたビスケットから顔を離す。
「どんな家族?」

 尋ねる言葉が切れ切れなのは、長い文章を組み立てる知性が起動していないからだ。だというのに、そのこと自体ははっきりと認識できる。きっと互いに独立した回路なのだろう、となのはは考察した。更に、どうやらそのような考察をする回路もきちんと動いているらしい、とも考える。

「家族というか、僕は両親がいなかったから、部族のみんなに育ててもらって……、だから、そうだね、スクライアの一族が僕の家族ってことになる」
「そうなんだ……」
「どういう家族か一言で言い表すのは難しいけど、育ててもらって感謝をしてるし、それに僕が考古学とかそっちの方面に進んだのは、一族が遺跡発掘の仕事をしていたからで、そういう意味でも尊敬しているよ。みんながみんな、その分野での先輩に当たるわけだからね」

 なのはは遺跡発掘をするフェレットの集団を思い浮かべようとして、大失敗した。
 魔法や異世界が存在するくらいだ、フェレットの部族が存在するのは何もおかしくない。彼らが言葉を話すのも、ユーノという実例があるのだから十分に許容できる。しかし、フェレットたちが揃って言葉を交わし、遺跡発掘の計画を立てている光景は、どうしても想像できなかった。
 彼らの小さな体に合った専用の住居はあるのだろうか。
 会話はできても、その短い手足で文字を書けるのだろうか。
 もしかしてフェレット独自の古代文明などがあって、それの発掘をするのだろうか。
 疑問は尽きない。というより、前提となる知識や常識のオーバーラップが少なすぎて、正確な情報の伝達が行われていないように思われる。
 それでも、彼が家族を大切に思っていることは、語る声や口調から十分に読み取れた。
 彼にとって家族が考古学の師であるというのは、なのはの兄姉にとって父が剣の師であるということと同じなのだろう、とも推測できる。
 推測できる、ただそれだけだ。
 自分にはそのようなものがあるだろうか、と考えたとき、なのはには咄嗟に挙げられるものが存在しない。
 喫茶店の仕事を手伝うために色々と教えてもらってはいるが、それとて他の全ての可能性をなげうって一心に取り組んでいるわけではない。このままでは、生涯を貫く誇りや信念には到底ならないことは、本人が一番よくわかっている。
 この問題は、結局、自身の進むべき方向がはっきりと定まっていないことが起因であり終着点であった。
 喫茶翠屋の後継ぎになるのか、それともまったく別の道を行くのか。別の道とは、どのようなものなのか。
 それを悩むことができるのが学生の特権であるとは知っていても、なのはの周囲には、恐らくはかなり幼い頃から、やるべきこと、やりたいことを明確に定めていたであろう親友たちがいる。それを意識してしまうと、どうしても自分一人だけ取り残されたような気持ちが拭い去れない。
 そして今、そんななのはの前に、己の道を誇らしく語ることができるユーノがいる。フェレットだけど。

「考古学って……」なのはは一度口を閉じ、続く質問を考えてから言った。「面白い?」
「面白いよ」ユーノは即答する。「うん……、と言うか、面白くなければ、あんなこと誰もやってないんじゃないかなあ」
「あはは……、身も蓋もないね」なのはは苦笑した。
「まあ、確かに身も蓋もないけどね。でも、極論でもないと思うんだ。学問とか呼ばれるものって、基本は道楽で、つまり嗜好品みたいなものであって、けれどもそればかりだと周りから白い目で見られてしまうし、場合によっては邪魔されてしまうから、どうにかして誤魔化そうとする。研究の真髄は実験やフィールドワークの楽しさにあって、研究者の本来の目的はそれなんだけど、真面目に働いている人たちからは遊んでいるだけのようにしか見えないし、事実その通りだから、何らかの成果を出して、そっちに視線を誘導するんだ。でも、僕も最近になって気がついたんだけど、世の中似たようなことは結構多いんじゃないかな」

 言われてみれば、そうかもしれない。熱のこもったユーノの言葉には、不思議な説得力があった。
 そういえば、売り上げを伸ばすための新商品を開発すると銘打って、様々なアイディアを形にしていくパティシエールの生き生きとした様子を、なのははよく見知っている。それも、きっと同じことなのだろう。

「それに、娯楽として作られたものは基本的にたくさんの人がそれを楽しんでいるけれど、僕が扱う研究には、広い世界の中で僕一人だけしか考えてないような謎がたくさんあるからね……、そういうのが、もしかしたら楽しいのかもしれない」
「ユーノ君だけ?」
「うん。それも、自分なりの答が正しいか正しくないかすら確認できないような謎ばっかりで」
「へぇ、凄いなあ……」感心してばかりのなのはであった。
「いや、全然凄くないよ。さっきも言ったとおり、ただ楽しいことをやってるだけだからね」彼は苦笑した。「なのはは、どんなことをしているときが楽しい?」

 もしかすると、将来についての悩みともいえない幼い不安を見透かして、それで彼は助言らしきものをくれたのかもしれない。
 だとすれば、ありがたくも少し気恥ずかしい。

「うーん……」なのはは照れ隠しに小さな笑みを作る。「とりあえず、今はお風呂に入って、それからベッドの上で目を瞑るのが楽しいと思う」







 毛布にくるまったなのはの寝顔はとても穏やかだった。彼女は風呂を出て髪を乾かしたらすぐにベッドに入ったので、きっと心地よく眠りにつけただろう。空腹が最高のスパイスであるように、疲労は最高の睡眠薬なのである。ユーノはそんなことを考えながら、寝顔を眺めていた。
 かち、かち、と規則正しい時計の音。
 すう、すう、と優しく響くなのはの呼吸音。
 小動物に変身しているユーノは、動作や嗜好もそれなりに小動物らしくなる自分に、随分と昔から気づいていた。そして、今現在、なのはの毛布の隙間に潜り込みたい自分にも気がついていたりするのだった。
 ごくり、とユーノの喉が鳴る。
 シャンプーの甘い香りと風呂上がりの体温でデコレーションされたベッドは、もうそれだけで何にも勝る魅力を放っている。
 部屋に満ちる夜の暗闇の中でなお白いなのはの肌は、きっととても柔らかいに違いない。

「……最低だ」

 ときどき無性に自殺したくなるユーノ・スクライアだった。これからジュエルシードの探索に出るという使命がなければ、本当に衝動のままベッドに潜り込んで、その後、首を吊っていたかもしれない。
 ぶるぶると首を振って、遠心力で邪な考えを遠くに飛ばす。

「さて……、それじゃあ、行ってくるよ」

 窓ガラス越しに外を見る。
 墨色の空に月。
 暗幕に開いた小さな穴みたいな星々。
 天蓋を突き破り訪れるはずの艦はまだ来ない。







 後にJS事件と呼ばれる一連の事件は、首謀者たるジェイル・スカリエッティの逮捕により、ひとまずの終演を迎えた。
 幕が引いたときに喝采を得たのは誰だったのか。それは、今の時点では誰にもわからない。後世の人々が拍手の残響を耳の奥で捉え、それぞれ勝手に想像するのだろう。真実とは、いつの時代もそのようにして作られてきた。今を生きる者たちの目には、今の真実は映らない。彼らの目の前には、今しなければならないことがただ山と積まれているだけである。
 華々しい舞台を降りた役者たちを、次の舞台が待っていた。
 JS事件の続編あるいは外伝のような形で語られることになるジュエルシード事件。これに挑むのは、ハラオウン提督率いる次元航行艦の乗組員一同。
 危険度の高いロストロギア・ジュエルシードが、輸送中の事故によってとある管理外世界に散佚した。そのような内容の通報と報告があったのは、ミッドチルダ地上本部襲撃事件の最中のことだった。この襲撃事件は管理局史に残るほどの事例であり、このような極めて通常ではない状況下での別事件の発生は、端的に言ってタイミングが悪かった。
 まず、次元航行部隊の対応が遅れた。これは局内で地上本部への救援が重要視され、またそのための処理が酷い混乱の中で行われていたことによる。海と陸の対立から、協力一つ申し出るのにも多大な根回しが必要とされたのだ。
 次に、ようやく収まり始めた混乱から脱し第97管理外世界へと向かった艦船が、道半ばにして何者かによる大規模な魔力攻撃を受け、機能停止に陥った。これは別次元からの奇襲であり、一歩間違えばクルーごと次元の海に沈んでいた可能性もあったとされる。その後、その艦は現場での機能復旧およびその後の任務達成が不可能であるとの判断を下し、帰還。次元航行部隊は、別の艦の派遣と、管理局の次元航行艦への攻撃を行った人物の特定という二つの大きな仕事を抱えることになった。
 そして最後に、地上本部襲撃事件の首謀者と同一人物による、ミッドチルダでの、聖王のゆりかご起動である。この巨大な質量兵器は、最終的に複数の次元航行艦による砲撃で破壊されたが、この作戦を実行するために発生した負荷は、次元航行部隊の処理回路を大きく圧迫した。
 これら未曾有の事態が重なったことにより、聖王のゆりかごの轟沈に関わった一人であるハラオウン提督は、休む暇なく第97管理外世界へと急行しなければならなくなった。
 ほぼ全ての艦が同様に急ぎ各地へと散っていったので、自身の労働環境を嘆く者がいても、他者を羨む者はいない。むしろ、次元航行部隊は羨ましがられる側だろう。陸は強力な指導者や重要な施設を失い右往左往しているし、次元の海の彼方には今も助けを待つ人々がいる。それに比べれば、いくら提督が自身の艦一つで事件現場に赴かねばならないほどとはいえ、ただ忙しいだけの自分たちはどれほど恵まれていることか。
 そのような考えが部隊員たちの総意であることを感じ取れたのは、ハラオウン提督にとって数少ない救いだった。
 そして、もう一つの救いは、副官が気を利かせて持ってきてくれた、やたらと甘い飲み物だ。湯気の立ち上るカップを傾ければ、体の隅々にまで糖分が染み渡るような気がした。眠りを妨げる熱くて苦い泥のようなコーヒーよりも、こういうときはありがたい。それを実感してしまえるほどに、疲労が蓄積している。
 最後に寝たのはいつだったか。
 呼吸が重く、頭が鈍い。それに、目が痛い。
 どうにも最近、体力が落ちてきた気がしてならない。昔はそれこそ、この程度の激務ならば好んで摂取していたのだが……。

「艦長?」

 部下の声で我に返る。思考が脇へと逸れていた。集中力が落ちてきている証拠だった。
 考えたくはないが、歳かもしれない。

「ジュエルシードの情報を。それと、一応現地世界の情報も」
「はい」部下が頷き、空中にウインドウを展開した。「確か艦長は、この世界についてご存じでしたよね?」

 モニター内には、ジュエルシードと第97管理外世界についての詳細。細かい文字が何行にも渡って連なっている。
 部下の言うとおり、どのような偶然によるものか、ハラオウン提督は現地世界について無知というわけではなかった。魔法技術が存在しないのに、極めて優秀な魔導師が輩出されることのある不思議な世界。ごく近しい知人が、そこの出身者だった。その関係もあって、現地については資料以上の情報を持っている。だから、いま重要なのは、どちらかと言えばジュエルシードに関する情報の再確認だった。
 ちらりと時計に目をやる。
 到着まで、まだまだ時間がかかりそうだ。
 この作業を終えたら、一度休もう。







 なに? ユーノ、ジュエルシードを探索しなければならないからベッドに潜り込めない?
 ユーノ、それは今やろうとするからだよ。
 逆に考えるんだ、帰ってきてから潜り込めばいいさ、と考えるんだ。

「……はっ!」と目覚めると、朝になっていた。

 小鳥のさえずり。
 道行く自動車やバイクのエンジン音。
 なのはの柔らかいお腹。
 ベッドの隙間どころか、パジャマの隙間に潜り込んでしまったらしい。

「死のう」ユーノは呟いた。

 ああ、でもどうせ死ぬならあと五分くらい堪能してもいいんじゃないかな。いや、いいに決まってる。死刑囚だって、刑が執行される前にタバコの一本ぐらい吸わせてもらえるというし、潔く自決する自分がこの柔肌を許されないわけがない。
 起き抜けの頭はどうしようもなく馬鹿になっており、五分が十分へ、十分が三十分へと延びに延びる。
 で、結局。

「ん……、くすぐったいよ、ユーノ君」

 なのはが目を覚ましてしまいました。
 パジャマの胸元から顔をのぞかせたユーノが少し動く度に、長い胴体とふわふわの毛が肌を撫で、くすぐったいのだろう、彼女は身を捩る。

「おはよう、ユーノ君」目元をこすりながら、なのはが言う。声はいまにも溶け出しそうな緩さだ。
「お、おはようございました!」ユーノはピンと伸びて硬くなった。
「どうしたの? 変なユーノ君」なのははくすりと笑い、ユーノを抱きしめた。それから再び目を瞑り、体の力を抜く。「わ、ふわふわで凄くきもちい」
「そ、それはこっちの台詞というか」
「ふわぁ……」
「なのは? え、また寝ちゃった?」抱きしめられたまま、ユーノが尋ねる。

 返事はなかった。

「ゴクリ……」ユーノは唾を飲んだ。だって、男の子だもん。罪悪感は、緊張と甘い匂いに包まれて、すっかり姿がぼやけてしまっていた。

 こうして、ますます正体を明かせなくなるユーノ・スクライアであった。







 なのはが目を覚ましたのは、携帯電話のバイブ音が原因だった。メールを受信したらしい。ベッドサイドテーブルの表面を細かく叩く硬い音が、数度響く。手を伸ばしてそれを取り、デジタル表示の時計を見ると、おやつの時刻まであと少しだった。
 普段から真面目な学生にとって、このような時間帯に自宅の自室にいるのは、なかなかに不思議で新鮮だった。加えて、思考は、覚醒の直後とは思えないほどに透明だ。空気が地平の果てまで静かに澄み渡り、一切ぼやけることなく、あらゆる細部まで観察できそうな印象。近年稀に見る好調かもしれない。
 この絶好調ともいえる状態で、なにをしよう。そんなことを考えつつ、なのはは仰向けに寝転んだままの姿勢でメールを開く。
 送信者は、思ったとおり親友の一人だった。内容も、想像したとおり、顔を見せなかったなのはを気遣うものだ。それを読んでいる内に、携帯電話が再び振動し、新しいメールの着信を知らせた。こちらの送り主は、もう一人の親友だった。彼女たちは、きっと一緒にいるのだろう。
 読み終わってから、メールボックスをチェックしたところ、昼頃にもメールが一通届いていた。アリサからだ。特に約束しているわけではないが、三人揃って平日の昼食を取ることは、日常の一部になっている。なのはとしては、午前の内に欠席を連絡するつもりだったのだが、寝過ごしたせいでメールできずに、友人たちに心配をかけてしまった。
 申し訳なく思いながら、めるめるめると返信する。ちょっと体調を崩してしまい、朝から今までずっと寝ていました、連絡できなくてごめんなさい。もう大丈夫なので、明日は会えそうです。
 すると、数分と待たずに、更なる新着メールが二通届いた。まるで早さを競っているようだ、となのはは一人笑う。文面によると、すずかがこれから見舞いに来るらしい。許可を求める形で書かれていたので、すぐにリプライを書く。一方、アリサはこれから用事があるとのことだった。悔しがる、しかし少しもウェットではない友人の表情が目に浮かび、また笑みがこぼれる。
 それから、なのははシャワーを浴び、着替え、空腹を訴えるお腹に適当な食べ物と熱いコーヒーを与えた。
 メールでのやり取りから一時間が経ち、すずかが訪れた。

「いらっしゃい、すずかちゃん」
「こんにちわ、なのはちゃん。立ち歩いても大丈夫?」
「うん、平気だよ。昨日の夜からさっきまで、ずっと寝てたらすっかりよくなったから。心配かけちゃってごめんね」
「よかった、アリサちゃんも凄く心配してたから……。でも、無理したらだめだよ?」体調の善し悪しが一目でわかる程度には、お互いを理解している。それでも、心配なものは心配なのだ。なのはもそうだから、すずかもそうなのだろう。「お邪魔します」すずかは靴を脱ぎ、家に上がった。

 リビングを抜け、階段を上り、なのはは友人を自室に招き入れた。
 すずかが持ってきたクッキーと、なのはが淹れた飲み物を挟んで、二人は談笑する。幼なじみ三人が揃ったときなどは、テレビゲームで盛り上がったりもするのだが、今日はすずかが気を遣ってくれているのだろう、穏やかな雰囲気が続いていた。
 話題は、突然変異のようにころころと変わる。それでいて、ときおり先祖返りを起こすこともあったし、そこから別の方向へと進化していくこともあった。たとえば、クッキーの味についての話が、次の瞬間にはすずかの家の猫の話になり、そこからアリサの家の犬の話へとつながり、通学路の途中にある公園の話へと飛んだかと思うと、手紙のやり取りをしている遠くの友人の話になって、今度は翠屋の新作の話に浮気し、またペットの話に戻ったりする。

「そういえば」すずかが思い出したように言った。「ユーノ君は、今はいるの?」

 ユーノが拾われた日、彼に治療を与えたのはすずかだった。そして、その夜の内に彼は月村家を脱走し、なのはと出会っている。
 翌朝、ユーノの姿がないことに驚いたすずかが電話で連絡をくれたときは、なのはは酷い罪悪感を覚えたものだった。昨夜の内にメールででも連絡しておけばよかった、と後悔もした。
 結局、逃げ出した彼を再びなのはが拾い、いまは高町家で飼っているのだと説明することで、フェレット騒動は一段落を迎えたのだが、彼がどのようにして檻から脱走しえたのか、などという謎も残った。魔法の存在を知っているなのはは、その話題が出るたびに内心で冷や汗をかかなければならなかった。

「あれ? そういえば……」姿が見えないな、となのはは首を傾げた。彼専用の寝床も空っぽだ。

 ユーノがベッドに潜り込んできたのは今朝のことだったが、その後、どうなったのだろう。とてもくすぐったかったのを覚えている。それに、体温の高い彼の体は、胸元に置いて寝るにはうってつけだった。実際、半分寝たままの状態で、彼を抱きしめた気がする。
 しかし、目が覚めたときにはいなかった。特に注意して探したわけではなかったが、視界に入った覚えはない。
 頭に詰んだエンジンの機嫌がよかったので、目が覚めた瞬間から現在までのことはしっかりと記憶していた。いまなら、シャワーの温度も、パンの食感も、完璧に再生できそうだ。
 それほどまでの好調を維持する頭脳は、だから、すぐさま一つの仮説を組み立てることもできた。
 柔らかいクッションから立ち上がり、なのははベッドに向かった。そして、不思議そうな目でこちらを見るすずかの前で、掛け布団を持ち上げる。電線に留まった鳥がする爆撃みたいに、なにかが床にべちゃっと落ちた。
 フェレットだった。ぴくりとも動かない。

「…………」なのはは無言。あんまり寝相悪いわけじゃないんだけどなあ、などと考えている。
「…………」すずかも無言。ただし、こちらは状況の説明を求める無言だった。もっとも、聡明な彼女のことだ、ユーノの体がちょっと不自然に平べったいあたりから、だいたいのことを察していそうではある。

 家族揃ってテレビを見ていたら色めいたシーンが始まったときみたいに、気まずいしじまが沈殿した。

「み、水とかお湯かけたら元に戻らないかな?」
「ワカメじゃないんだから、戻らないよ」お嬢様は意外にも庶民的なことを知っていた。
「どうしよう! このままだとユーノ君が、し、死んじゃう……!」
「まずは落ち着いて、なのはちゃん。ほら、深呼吸して」

 なのはは言われるまま深呼吸した。

「ふぅ……、うん、落ち着いた」
「じゃあ、次は急いで水かお湯を用意しないと」
「すずかちゃんの方が混乱してたなのー!?」なのはも相変わらず、語尾が乱れる程度には混乱していた。

 不意に、既に忘れ去られつつある被害者がむくりと身を起こした。
 彼は部屋の中をきょろきょろと見回す。まずなのはの顔を見て、次にすずかの顔を見た。

「ユーノ君……、よかったぁ」
〈あれ? ここは……、一体なにが……〉ユーノが念話で尋ねる。〈なんだかとても柔らかくて、マシュマロで、幸せだった気がするんだけど、急に苦しくなって……。寝る前のことがどうしても思い出せないんだ。なのは、なにか知らない?〉
〈う、ううん、知らない。なにも知らないの〉
〈そっか……。うん、僕も疲れがたまってたのかもしれない〉勝手に納得してから、彼は視線をすずかに向けた。〈彼女は……、ああ、僕を治療してくれた……。そっか、なのはのお見舞いに来てくれたんだね?〉
〈うん、すずかちゃん。もう一人、アリサちゃんの方は用事があって来られなかったから、元気になったユーノ君のお披露目はまた今度〉
〈それはいいけど、なのは、体はもう大丈夫? 一応、治癒魔法の効果が持続するようにはしておいたんだけど、具合は?〉
〈あ、だからこんなに調子がよかったんだ。そっか、ありがとうユーノ君。おかげですごく元気になったよ〉
〈でも、無理したらいけないよ。魔法もしばらくは控えること。大事を見て、一週間くらいは〉

 それはやや不満が残るところであったが、これ以上言葉もなく見つめ合っていると、威嚇し合う犬猫に見えてしまう。なのはは素直に忠告を呑み、ユーノを手招きした。







 一度は不意打ちによって一方的な勝利を得たが、二度目はない。航行速度から見て、管理局が尋常ならざる警戒をしているのは明らかである。艦を駆る者がよほど慎重なのか、それとも奇襲がそれほどまでに恐ろしかったのか。

「あるいは、そう……」彼女は目を細めた。「釣り上げようとしているのか」

 どうであれ、新しく派遣されてきた次元航行艦の到着が遅れるのであれば、それは好都合だった。もちろん、もう一度同じ手で追い返すことができれば言うことはないが、それができるぐらいならば、時空管理局という組織はとうの昔に滅んでいる。
 先日、管理局の戦艦に痛打を与えたのは、次元跳躍攻撃だった。逃げ帰ったその艦には、こちらの居所を悟られなかったと見ていい。しかし、魔力波動の記録程度はされただろう。管理局が有能か無能かという次元の話ではなく、戦艦に備わる機能が自動でデータ取りを行うという意味だ。当然、そのデータを、現在第97管理外世界へと向かっている艦も共有しているはずである。彼らが現地に到着し、捜査中にフェイトと接触すると、あまり面白くない事態にもなりかねなかった。
 小さな舌打ちの音が部屋に響いた。
 娘の方では、予期せぬトラブルが起きている。管理局の立ち直りも予想以上に早い。スカリエッティに至っては、あれだけ大言壮語しておきながらあっさりと逮捕されてしまった。
 管理局が困難を乗り越えると、まるで反動のように、今度はこちらの行く先にこそ複数の艱難が現れた。
 この計画は、元から賭けのようなものではあったが、そうであるなりに準備に力を入れてきた。各段階で失敗したときの挽回策も練ってあるし、最悪、身を隠すという選択肢も考慮に入れている。自分の生きる意味そのものであるのだから、決して失敗はできなかった。
 ここは退くべきか、それとも駆け抜けるべきか。
 自分は臆病になっているのか、それとも焦慮に駆られているのか。
 わからない。
 わかりません。
 なにか、自分にとって好ましい答がわかったためしは、思えば一度もなかった。いつだって、理解したくもない真相ばかりが、呼んでもいないのに迫ってくる。
 そして。彼女は思う。いつだって、私はそれらを乗り越えてきた。
 それは今回も同じこと。
 体から力を抜き、椅子の背にもたれかかる。
 目を瞑ると、暗闇が宇宙のように広がった。まぶた越しに感じる生体ポッドの冷たい光は、さながら銀河だ。
 白い光に包まれた、大切な人のことを思う。
 早く、あなたの笑顔を見たい。







 母の呼び出しに従って、フェイトは時の庭園に帰参した。たった十数日ほど離れていただけで懐かしく感じてしまうのは、第97管理外世界での生活が忙しかったからだろう。しかし、その成果を持ち帰った今日、これから会う母が喜んでくれると思えば、努力の甲斐もあったというものだ。
 フェイトは母の書斎を目指した。ともすれば駆け足になりそうだったが、自分に言い聞かせて我慢する。久しぶりに顔を見るプレシアに、いきなり叱られたくはない。フェイトが一人で歩いているのは、一緒に帰ってきたアルフが一足先に調理場へと向かったからだった。彼女は一刻も早く土産のケーキを冷蔵庫に放り込むことが己の使命だと信じているようだったので、フェイトも敢えて止めずにおいた。その代わり、後で彼女が怒られたなら、弁護するつもりでいる。もっとも、プレシアは既にアルフの性質については諦めている節があるので、怒られることはないだろう、とも思うのだが。
 そうしてたどり着いた部屋の前。
 古めかしい扉を二度ノックすると、入室の許可が出た。
 ゆっくりと扉を開くと、ぎい、と鈍い音が鳴った。この音を聞くだけで、条件付けされた犬のように嬉しくなってくるフェイトである。
 彼女は部屋に入ると、静かに扉を閉めた。
 そこは広い書斎だった。広いというのは、面積だけでなく体積に関してもいえる。ほとんど真上を見上げなければ視界に入らない天井と、壁一面の本棚を埋める書籍は、いつ見ても圧巻である。そして、大量の書籍を蔵する施設に特有の紙のにおいは、いつも変わらない。
 入り口から見て正面の、入室したフェイトと相対する位置取りの机に、プレシアは向かっていた。視線は机の上の本に落ちている。

「ただ今戻りました。母さん」入ってすぐの所で立ち止まり、フェイトは挨拶した。

 数秒のラグがあってからプレシアは顔を上げ、こちらを見る。

「おかえりなさい」彼女はちらりと時計に目を向けると、本を閉じて立ち上がった。「もうこんな時間……。アルフは?」
「いまは夕食の仕度をしているみたいです」少し考えて、フェイトは続ける。「でも戻ってきたばかりだから、まだ時間がかかると思います」
「そう。だったら、悪いけれど任せてしまおう」プレシアは呟くと、フェイトに近寄った。そして、その肩を柔らかく押して部屋の外に出る。「夕食までの時間で、話を聞くわ。それにバルディッシュの調整も、時間があれば」

 ポケットの中のバルディッシュが嬉しそうな気配。寡黙な相棒はプレシアのことが好きなのだ。そのあたり、親近感と共にわずかな嫉妬を感じることもある。もはやどちらに嫉妬しているかもわからない、それは複雑で微弱なものだったが、存在するのは確かなことなのである。
 それからフェイトは、プレシアの私室まで母の後ろをついていった。そして、集めたジュエルシード六つを差し出し、求められるがままに報告を行い、たくさんのカートリッジを受け取った。

「随分とたくさん使ったようだけれど」プレシアがカートリッジを指して言う。
「はい」フェイトは頷く。「さっきも言った、現地の魔導師が……」
「責めているわけじゃないわ」プレシアは浅く目を閉じた。「それにしても……、管理外世界にミッド式の」

 目を閉じたプレシアは無表情だった。元々感情も思考もあまり表に出さない人なのだ。しかし、表に出ないだけであることをフェイトは知っている。感情については、アルフが色々と読み取って教えてくれることがあるし、思考については、ものを教わるときなどに感じ取ることができるのだ。いまだって、静かな表面とは対照的に、その内側では凄まじい速度で計算が行われているのだろう。次元が違うと言っても過言ではない母の能力は、フェイトの憧れだった。
 プレシアが目を開くまでのそれほど長くない時間、フェイトは飽きることなく母の顔を見つめていた。

「もう少し、その魔導師について教えてちょうだい」
「はい。えっと」フェイトは既に報告したことしか思い浮かばなかった。
「能力や使う魔法ではなく、相手をしたあなたがなにを思い、考えたのかを」プレシアがフォローする。
「思ったこと……」あまり経験のない質問だったので、フェイトは戸惑う。「……どうしてわたしや母さんの邪魔をするんだろうって」
「それは向こうも同じことを思っているでしょうね。好きか嫌いかは?」
「嫌いです!」フェイトは強い口調で即答した。嫌いな理由は、もちろん自分たちの邪魔をするからだった。
「そう」プレシアは、なぜか薄く微笑んだ。「そろそろ夕食ができる頃ね。バルディッシュの調整は後にしましょう」彼女は立ち上がり、フェイトにも部屋を出るよう促した。

 それから三人で一緒に食事を取り、デザートを食べた。
 フェイトが選んだモンブランのケーキは、ブランデーが強くきいており、彼女は一口目で顔をしかめた。それを見たプレシアがくすくす笑い、自分のケーキと交換してくれたのが、フェイトには嬉しかった。それを傍で見ていたアルフも、嬉しそうに笑った。
 夕食後には、久しぶりに母と二人で風呂に入り、フェイトは髪を洗ってもらった。母が綺麗だと言ってくれた長い髪は、フェイトの自慢である。白い魔導師と戦ったせいで傷んでしまったかもしれない、というのが目下の心配事だったが、プレシアによるとそんなことはないようで、フェイトは安心した。
 その後は、体が冷えない内にベッドに入り体を休めることになった。自分のベッドではなく、母のベッド。明日には第97管理外世界に戻るので、少し我が儘を言ってみたところ、プレシアが頷いたのだ。しかし、プレシアはバルディッシュを整備しなければならなかったので、一緒に寝ることはできなかった。本当は母が来るまで起きていようと思ったのだが、自分でも気がつかない内に眠ってしまい、翌朝、盛大に落ち込んだフェイトであった。

-Powered by HTML DWARF-