プレシアなのはフェイト

エピローグ



 鳥の声と日の光で目を覚ますと、まずは洗面所に向かう。冷たい水で顔を洗うと、目の奥の方にわずかに残っていた眠気はすっかりと消え去ってしまった。
 部屋に戻り、制服に着替える。真っ白なワンピース型の制服だ。義姉のもう二度と見ることはないであろうバリアジャケットにデザインがよく似ていた。
 これに初めて袖を通したとき、フェイトはこんなにかわいらしい服が自分に似合うのか心配したものだったが、そんな心配は、口々に褒めてくれる新しい家族たち――特に大喜びする桃子を前にしては長続きしなかった。聞けば、私立聖祥大付属小学校はなのはの母校でもあり、桃子は幼い頃のなのはを思い出したらしい。なのはと同じ制服を自分が着ているというのが、フェイトは嬉しかった。その後、せっかくだからと写真を撮ることになり、それがフェイトのアルバムを飾る記念すべき一枚目になった。
 それから少し経った現在、白い制服はすっかり肌に馴染んで、私服も含めた中でお気に入りの一着になっている。
 着替え終え、髪を結び、姿見でしっかりとチェックしてから部屋を出ると、ちょうどなのはも部屋を出てくるところだった。

「あ、フェイトちゃん」
「おはよう、姉さん」

 フェイトが高町家に引き取られ、ふたりの関係は姉妹になった。
 なのはを姉さんと呼び、長いこと末っ子でいた彼女を大いに照れさせ困らせるのがフェイトの密かな楽しみである。
 けれども、どうやら最近になって耐性がつき始めたらしく、

「うん、おはよう。今日もよく似合ってる」

 などと挨拶に笑顔が添えられて返ってくるようになったので、そろそろ対策を考えなくてはいけないだろう。
 ふたりして良いにおいに引き寄せられてダイニングルームに入ると、既に朝食が用意されていた。なのはとフェイトがふたりキッチンに並ぶこともあるが、今日は桃子の料理だった。
 現在、高町家にはフェイトを入れて五人が住んでいる。両親に加えて姉がふたりだ。本当はもう一人、一番上の兄がいるのだが、彼は仕事の関係で海外に行っている。たまに返ってきたときは、寡黙ながらもこちらを気にかけてくれているのがよく分かる好人物だった。

 全員で集まって食事を取り終えると、それぞれが自分の予定に向かって散らばっていく。
 フェイトは皆に見送られ家を出た。
 通学はバスだ。
 毎朝使っていれば顔見知りにもなろうというもので、同じクラスにできた友だちとはまた別に、この通学バスをきっかけにできた友だちもいた。彼らと話をしていると到着は信じられないほどあっという間で、けれどもフェイトはそれを残念に思ったりはしなかった。なぜならば、学校は学校で違った楽しさがあるからだ。
 小学校に通い始めるまで、フェイトは同じ年頃の子供たちと接したことがなかった。教育はすべてプレシアとアルフによっておこなわれ、その質が良かったためだろう、彼女の成績はとても優秀だった。それまで触れることのなかったこの国の言葉や社会について学ぶ教科は努力によって追いついたし、魔導師として必須だった理数系の科目に至っては、もはや小学生どころか中高生のレベルを完全に超越している。けれども、クラスメイトたちと受ける授業は少しも退屈ではなかった。特に、教師と生徒のやりとりが中心の座学と違って、生徒同士の交流が増える体育や家庭科の実習、理科室での実験に教室での話し合いはとても新鮮で、心躍る時間だった。もちろん休み時間にみんなで遊んだりお喋りしたり食事を取ったりするのも、フェイトにとってはまったく新しい体験となる。何もかもが目新しく、そこに何事にも前向きに挑まんとする姿勢が加われば、彼女の学校生活が楽しいものにならないはずがなかったのだ。
 そんな楽しい学校からも、すべての授業が終われば帰らなくてはならない。

 けれども彼女の一日はまだまだ終わらない。

 放課後になると、友だちと約束して一緒に遊ぶこともあるけれど、今日はまっすぐ家に帰ることに決めていた。
 誰もいない静かな自宅で制服から私服に着替えると、すぐに家を飛び出す。
 目指すは『翠屋』だ。
 喫茶店と洋菓子店を兼ねる翠屋は、高町家の父が店長を、母がパティシエールを勤める人気店。ふたりの娘であるなのはも昔から手伝いをしていたというが、最近になって店を継ぐことを決意したらしく、日々精進しているようだった。
 桃子が優しいとはいえ仕事は仕事、客商売で半端なことはできるはずもなく、教えは必然厳しくなるが、それに必死で食らいつくなのはの姿には、かつてフェイトに幾度となく挑みかかってきた姿に重なるところがあった。柔和な笑みとは裏腹に、かなり根性の人なのだ。いつかは鬱陶しくて憎らしくて仕方がなかったというのに、いまは彼女のそういうところに惹かれる自分がいることをフェイトは発見していた。
 帰宅してすぐに翠屋に向かったのは、そんな彼女の手伝いをするためだった。そして、将来は手伝いではなく、一緒に働けるようになりたいとも思っていた。
 実は、そのことを高町家の皆に伝えたことがある。そのときは、まだこれから色々とやりたいことが見つかるかもしれないから、慌てる必要はない、と言われてしまった。しかし、人の願いを頭から否定する人たちでもない。任される仕事が徐々に増えてきていることがくすぐったくも誇らしフェイトである。

 日が暮れて翠屋が閉店しても、まだ一日はつづく。

 この日はなのはと共に帰宅して、ふたりで夕食を作った。そして、さほど待つこともなく帰ってきた家族たちと食卓を囲む。
 和やかな夕食の席は、この一日の報告会も兼ねている。わりと溜め込む質のはずのフェイトになんでも喋らせてしまう不思議な空気が高町の家にはあった。話しても話しても話題が尽きることはなく、けれども他の皆の話も聞きたくて困ってしまうほどだった。
 食べ終わり、準備のときと同じようになのはと一緒に皆の食器をぴかぴかに洗ってから、自分の部屋に戻る。その途中でなのはに呼ばれて、フェイトは足を止めた。

「フェイトちゃん、いっしょにお風呂入ろっか」

 シャンプーが苦手であることはすっかり知られてしまっている。

「あ、うん」と頷きそうになって、フェイトは慌てて首を振った。「先に、宿題やらないと」

 なんとこの国には文字を縦に書く文化があった。縦書きの場合、行は右から左へと書き加えていくことになる。だから漢字の書き取りなどを右手でおこなうと、手が汚れてしまうことがたびたびあった。洗えばいいだけの話だったが、なんとなく、お風呂にはやるべきことをすべて終わらせてから入りたい。

「わかった。それじゃあ、宿題がおわってからにしよう」
「おわったら呼びに行くから」
「うん。待ってるね」

 わかれて部屋に入り、扉を閉める。
 閉じきった空間に一人。家族の賑やかさの直後だから、静けさは余計に際立って感じられた。一日分の心地よい疲れと満腹感も手伝って、思わずあくびが出てしまう。このままベッドに倒れ込めば、次に目を開くのはきっと明日の朝になるだろう。なのはとの約束もあるし、誘惑に屈するわけにはいかなかった。
 手放しかけた手綱を強く握り、フェイトは精神の制御を取り戻す。自分自身のコントロールに関しては、大人にも負けない自信がある。
 その集中力で挑めば、宿題など彼女の敵ではなかった。
 明日の授業の準備もすべて整え、さてなのはを呼びに行こうと椅子から立ち上がる。
 同時に、部屋の扉がノックされる音が二度響く。

「フェイトちゃん、ごめん、いま大丈夫?」なのはの声だ。

 フェイトは扉を開いて迎え入れる。

「ちょうど呼びにいこうと思ったところだったから」
「そっか、よかった。いま、ユーノ君から連絡があって、もしよければフェイトちゃんも一緒にどうかなって」

 なのはの正面に通信用のモニタが浮いていた。体を寄せてのぞき込めば、そこには愛らしい姿をした小動物。彼の首には、首輪みたいにレイジングハートがぶら下がっている。

「こんばんは、フェイト」
「お久しぶりです、ユーノさん」

 お互いに頭を下げ合う。短い期間ですっかり日本式に慣れてしまった二人である。

「えっと、この時間だとミッドチルダは」フェイトは頭の中で計算する。
「あ、いや、いまミッドじゃないんだ。こんばんは、で大丈夫だよ」
「そうなの?」なのはが首をかしげる。「そういえば初めて見るお家かも」ユーノの背景のことだろう。
「昔発掘に関わった遺跡の再調査が始まってね。資料提供側の責任者というか、アドバイザーというか。どうしても資料だけじゃ伝わらないものもあるから」
「えっと、レシピだけじゃ伝わらない職人の技とか、コツみたいなもの?」
「まさにそれ」フェレットの顔が微笑んだ。「なのはの修行の方はどう?」
「うん、大変だけど楽しいよ。お母さんも厳しいけど、学べば学ぶほど、凄さが分かるようになってきて」
「僕には、あの桃子さんが厳しいっていうのはちょっと想像できないけど……、そっか、楽しめてるならよかった。きっと、なのはならすぐに一人前になれる」
「あはは、どうかなあ」照れたように笑うなのは。

 とても親しく会話するこのふたりがかつてパートナー同士だったことは、フェイトもよく知っている。なにせ、何度も戦った人たちなのだ。
 そして、ある意味で、なのはのもうひとりのパートナーだったデバイス・レイジングハートは、元を正せばユーノの持ち物であったという。
 それを聞いたとき、フェイトは驚いてしまった。なにせ、フェイトの目には、なのはとレイジングハートの相性は抜群に見えたからだ。それが借りたばかり、できたばかりの即席タッグだったなんて……。
 高町家に来たばかりという意識がなかなか抜けないフェイトにとって、あの丸っこくて赤いやつは親近感の対象であり、希望でもあった。

「そうそう。仕事を楽しんでると言えば」なのはが隣に寄り添うフェイトに顔を向ける。「フェイトちゃんも一緒にお店のお手伝いしてくれてるから、お父さんもお母さんもお姉ちゃんも、みんな喜んじゃって」

 突然話題に上がったフェイトは、驚きながらも頷いた。

「へえ、すごいじゃないか」ユーノが驚いたように言う。「フェイトはそっちの学校にも通ってるんだよね?」
「はい」
「いいなあ」などという彼の声は本気で羨ましそうだ。フェイトの困惑を感じ取ったか、ユーノは取り繕うように咳払いする。「いや、実は、僕もその世界に興味があって。もしフェイトがよければ、今度いろいろと話を聞かせてもらえないかな」
「それはいいですけど……」フェイトはなのはを見る。ずっとこの世界に住んでいるなのはの方が適任ではないだろうか、と提案するように。
「いや、フェイトの話を聞きたいんだよ。今までと常識が違う世界に暮らしていて、あれが違っていて驚いた、これが同じで安心した、というフェイトの経験を。僕も少しだけなのはの家にお世話になっていたけど、ほら、ずっとこれだったし」ユーノは自分自身の体、小動物の肉体を動かしてみせる。「渡航の許可もなかなか取れるものじゃないしね」

 彼の発言に対して、なのはが不思議そうな表情で口を開いたが、言葉が出てくることはなかった。先に、部屋の外からなのはを呼ぶ声がしたからだ。

「あれ、お姉ちゃん。どうしたんだろう。ユーノ君、ちょっと」
「僕のことは気にしないで。フェイトとも話したかったし」
「ごめんね」

 もう一度呼ぶ声が聞こえ、なのはは小走りに部屋を出ていった。その背中を見送り、フェイトはまたモニタに向き直る。

「さて。それじゃあ、申し訳ないけど先に嫌な話から」
「お願いします」

 ユーノが語ったのは、フェイトの頼み事――ジェイル・スカリエッティ事件の捜査の続報だった。
 フェイトがスカリエッティを知ったのは、ジュエルシード事件がすべて終わってからのことだ。取り調べの最中に、母プレシアと手を組んだ人物として挙がった名前だった。
 そのスカリエッティは、ミッドチルダで大規模なテロルを起こしながら、あっさりと逮捕されたという。
 しかし、事件はそれだけでは終わらなかった。
 なんと、彼は自身のコピーを次元世界中にバラ撒いたと宣言し、いずれ似たような事件が起こりえることを仄めかした。
 自分の母がこのような危険人物と共犯関係にあったことにショックを受けたフェイトだったが、そんな彼女を救ったのもまた母だった。

「これはクロノ提督が言ってたことだけど、レイジングハートの情報がなければ、数年は出遅れていただろうって。それに、この手の事件での数年は致命的だとも」

 レイジングハートは臨海公園で一度なのはの手を離れている。奪ったのはフェイトで、その後プレシアに渡った。そのとき、ジュエルシードが抜かれる代わりというわけではないだろうが、とある情報がインプットされたらしい。それが、プレシアが独自に調べたと思しきジェイル・スカリエッティに関する資料だった。
 プレシアとスカリエッティは信頼し合っていたとはとても言えないようだったが、それでも逮捕を目的に動いている管理局よりはよほど情報を得やすい関係だったのだろう。研究内容に始まって、隠蔽された研究施設や、彼の悪魔的な頭脳を欲してクローンを匿う可能性のある組織や企業など、情報は多岐に及んだ。また、プレシアが起こした事件の全貌も、プレシア本人の手で記録されていた。
 これはフェイトの罪状を軽減するための司法取引的な意図による情報の提供で(実はフェイトは、大した抵抗もなくあっさり捕まったスカリエッティへの報復なのではないか、と密かに思ってもいた)、フェイトが事前に知らされていた用途不明のパスワードによって開示される仕組みになっていた。元々罪は軽かったが、これのおかげでフェイトはほとんど罰を科せられることがなく、短い保護監察期間の後、生涯にわたって完全に魔力を封じるリミッターをつけることを条件に、地球での永住が許された。外から見れば一種の追放だったが、知るものが見れば気遣いにしか見えない処置だった。このあたりはジュエルシード事件を預かるクロノ提督のチームが尽力してくれたらしく、感謝は言葉に表せないほどである。

「じゃあ、この話はこれでおしまい」しばらく話し続けたユーノは口調も軽くそう締めると、一度フェイトの部屋の扉を見てから、突然人間の姿に戻った。

 フェレットの毛並みと同じ色をした柔らかそうな長髪。緑色の理知的な瞳。
 この姿は、ジュエルシード事件の裁判が終わるまでの間、何度も見ていた。どういうわけか、彼は人間の姿とフェレットの姿を使い分けていたようだったけれど。

「それで、ここからが本題、というか……、フェイトに相談したいことがあるんだ」
「相談?」

 フェイトは疑問に思う。
 大人の人が、自分に相談?
 なんだろう。

「うん。事情を知っている中で、一番なのはと仲がいいフェイトに、是非聞いてほしい相談事があって」ユーノは真剣な表情で話す。「実は、なのはに、僕が人間だってことをどうやって打ち明けようか悩んでるんだ」
「え……」

 フェイトは戸惑うも、すぐに気がつく。そうか、信じにくいが、なのははあれで魔法初心者だった。フェイトもユーノを見て使い魔かと思っていたほどだったし、なのはが自分で気づくことはできないだろう。変身魔法の存在すら知らない可能性もある。
 ……それにしても、なのはがいるときいつもフェレットなのはそういうことだったのか。趣味じゃなかったんだ、と納得するフェイトである。

「えっと。たとえば、元の姿に戻ってから、毛皮のコートをプレゼントする、とか」
「ああ、なのはのために毛皮を脱いだら人間になっちゃったよって? なるほど」
「……」フェイトは渾身の冗談を真に受けられて黙り込んだ。

 この沈黙をどうしてくれよう、と考えた矢先、部屋の扉が開いた。

「ただいま。……あれ? どうしたの?」戻ってきたなのはは、誰も映っていないモニタをのぞき込む。
「あ、ごめん。ちょうど今、呼び出しがあって」再び現れたユーノは既にフェレットだった。「なのはの方はなんだったの?」
「うん、お風呂が空いたからフェイトちゃんと入っちゃえって」
「なら、ちょうどいいし、今日はここまでかな。また近いうちに連絡するよ」
「わかった。楽しみにしてる。お仕事がんばって」
「ありがとう。なのはも頑張って。フェイトも、またこんど。それじゃあおやすみ」

 モニタが消失する。いっそ見事な撤退だった。

 それからふたりは一緒にお風呂に入った。
 なのははフェイトとユーノがなにを話していたのか気になるようだったが、フェイトは彼の秘密を死守することに成功した。自分が話してしまえば案外上手くいくのではないかと思いもしたが、リスクを考えれば黙っているべきだろうと判断した。決して毛皮のコート作戦を見たかったわけではない。

 お風呂から上がり部屋に戻ったときには、既に寝るには良い時刻になっていた。
 一度、なにかやるべきことが残っていないか頭の中でチェックしてから、フェイトはベッドに潜り込む。
 温まった体から熱が逃げないよう、しっかり毛布にくるまると、途端にまぶたが重くなり始めた。
 今日も一日、楽しかった。
 きっとあしたも楽しいに違いない。
 やさしく抱きしめられるような心地よさにつつまれながら、眠りに落ちていく。
 夢か現かもわからぬまどろみの淵にあって、フェイトが最後に思ったのは、母のことだった。


 いまでもあなたを思うと寂しいけれど、それでもあなたの娘は幸せにやっています。


 だから、私はもういいから。


 どうか、今度は母さんがたくさん愛してもらえますように。





 End.





























 アルハザードにも死者蘇生の技術は存在しなかった。しかし、技術レベルは、彼女が旅立った時代よりも進んでいた。
 彼女はアルハザードの土台の上で、更に研究を進めた。
 研究の題材は二つ。
 死者蘇生そのものと、
 死んだ人間の再現、すなわちクローンへの任意の特徴・方向性の付加。
 前者はなかなか進まないが、後者の進み具合は悪くない。
 この日も、彼女が所属する研究チームは、一つのプロジェクトを完成させたところだった。
 この成功から得られたデータを使い、彼女はまた次の段階に挑むのだろう。

 深く息を吐き、椅子に体重を預けきる。
 そうして、次の研究の構想を練ろうとしたところで、唐突に再生される記憶があった。


 ―――君が父と呼んでくれないのならば、私が君を母と呼ん


「ああ、――そういうこと」

 彼女は苦笑すると、次の瞬間には研究について考えはじめていた。
 もう、どうでもいいことだ。