じゃぷにか闇の日記帳
09
ざあ、と風が吹き抜けていった。顔に体にぶつかるそれを感じながら、はやては目を細める。
「ええ風やなー」
「うん、そうだね」ヴィータの声が、背後から聞こえる。「もう秋だ。朝は寒いぐらいだったし」
鮮烈な茜の空。逆光で輪郭しか見えない影絵の町並み。
それも、じきに終わる。
天球の頂上に生まれた紫色が、夕焼けを地平の彼方に押し込めようと頑張っている。あと十分もすれば、形勢は逆転するだろう。
九月も終わろうとしているというのに、夏の暑さが未だに残る近ごろである。しかし、今日は少し涼しかった。なので、はやてはヴィータと共に夕方の散歩に出た。
たどり着いたのは臨海公園の片隅だった。今朝早くに目が覚めたヴィータが、ふらりと散歩に出たときに見つけたという場所だった。二人はそこでキラキラと輝く海を眺め、潮風を全身で感じて、その帰りに買い物を済ませた。
いまはたくさんの袋をぶらさげて、目の焼けそうな夕日を浴びながら我が家を目指している。
なにも特別なことはない一日だった。
これから特別なことが起きたりもしない。
家に着いたら急いで夕食を作り、二人でそれを食べて、食器を洗い、お風呂に入り、その後はテレビを見るのか本を読むのか、どちらにしてもあまり夜更かししないようにしなければいけない。そして、二人で一緒のベッドに入る前に日記をつける。
誕生日から使い続けて、もうすぐ四ヶ月といったところ。
毎日欠かさず続けてきた日課が、明日には終わる。
長かったような気もするし、短かったような気もする。
明日の朝には、恐らく2ページほどしか残っていない。これまでの経験から、お昼になる前に使い終わるはず。
それでおしまい。
ヴィータは消えてしまう。騎士たちと言葉を交わすことはできなくなる。
でも、それだけだ。
皆は変わらず傍にいてくれる。はやてはそう信じている。騎士たちもそう信じている。だから、なにも変わらない。
ただし、もう二度と日記を書くことはない。はやてに変化があるとすれば、そのくらいだろう。
◆
「なあヴィータ、闇の書の残りのページ、使い切ったらどうなるん?」
尋ねた後に、しまった、と思う心が確かにあった。それだけ自然にこぼれ落ちた言葉だった。そして、よい結果にならないという予感もあった。だから、いままで見ないふりをして、一度も尋ねなかったのだ。
はやては背後のベッドを振り返らずに、しばらく待った。自分の鼓動が聞こえそうな静寂だった。
ヴィータの声は返ってこない。
もしかしたら、もう寝てしまったのかもしれない。そんな可能性が浮かび、彼女はほっとした。
これで、いまの質問をなかったことにできる。
闇の書を閉じたら、ヴィータを起こしてしまわないようそっとベッドに滑り込めばいい。それでまた新しい一日が始まるはずだ。
ペンを置き、
「はやて」
ああ、やっぱり駄目だったか。
はやては静かに諦めた。
「うん、聞いとるよ」
「ごめん。本当は最初に……、出てきたときに、話すつもりだったんだけど、無理だった」ヴィータの声はくぐもっている。枕に顔をうずめているのだろう。「他のみんなのことが気になって外に出られなかったとき、シャマルが言ったんだ。だったら代わりに、使い切ったときのことをはやてに話す役目も持っていけばいいって。だから、あたしは外に出てこられた。でも、いままで言えなかった」
そして、彼女は話した。
はやての脚が悪いのは、闇の書が原因だと。
はやてが闇の書を使い切れば、闇の書はただの本に戻るのだと。
そうなれば、守護騎士たちは消え、はやての脚はじきに動くようになるのだと。
「なんで今まで黙って……!」感情の昂ぶりがそのまま言葉になって口から出た。しかし、すぐに途切れる。「……ごめんな、ヴィータ」
敢えて言葉にしてこなかった、予想の中でも最も悪いものが、現実になってしまった。
視線を落とし、そこにある膝を撫でる。
こんな脚なんてどうでもよかった。
それよりも、そんなことよりも、ページを使い切ったら家族が消えてしまうということの方が、遙かに恐ろしい。ヴィータを泣き止ませてあげられないことの方が、遙かに苦しい。
みんながいてくれるなら、一生歩けないままでもよかった。ヴィータが泣き止んでくれるなら、こんな脚は切り落としてもよかった。
でも、それは叶わないのだろう。
いまヴィータが声を押し殺して泣いているということは、いままでずっと苦しんできたということだ。守護騎士たちが、いままでずっとどうにかしようと頑張ってきて、それでも無理だったから、ヴィータが泣いているのだ。
そして、それを知らずにずっと一人で幸せに浸ってきた八神はやてがここにいる。
何よりも腹立たしいのは、心の一部が既に諦めていることだ。
諦めたは、はやての中でも最も臆病な自分だった。同時に、常にはやての心を守ってきた自分でもある。良くない未来を予測したとき、その自分がはやて全体に対して支配的となる。そして、上手に物事を諦める彼女を、はやては遠くの対岸から眺めるのだ。
最悪を避けるシステムから、最悪を受け止めた上で被害を減らすシステムへの切り替えは、速やかに行われた。はやてはそれを、ふわふわとした気分で眺めていた。
ぼんやりとしたままベッドに入る。
ヴィータの体温を抱きしめて、眠りへと沈んだ。
◆
それからの生活は、夢みたいに何事もなく進んだ。
朝起きて、いつものように二人と一冊とで過ごし、日記を書いてから眠る。
いつまでも続くことを疑わぬかのように、はやては振る舞っていた。
それでも、
書の中から話しかけてくる騎士たちへの返事は簡素になり、ページの消費は明らかに遅くなった。それは、皆との別れを覚悟してしまった自分への、ささやかな抵抗だったのかもしれない。
見苦しく泣き喚いてでも、少しでも長く一緒にいたい。
足掻いた結果がなにも変わらず、それどころか、別れがもっと辛くなったとしてもいい。
そんな思いが、確かにあった。
それは、時間が経てば経つほど強くなっていく。
ついにはやての手がペンを握らなくなったのは、残りが9ページになった9月26日のことだった。騎士たちも、はやてが答えられないと知ると、無理にページを埋めようとはせず、闇の書に文字が書かれることなく一日が過ぎた。
翌日、翌々日と続いたその停滞を破ったのは、ヴィータだった。
「ねえ、はやて」暗闇の中、隣に寝ているヴィータが囁くように言った。声の聞こえてくる様子や動く気配から、こちらを向かず、真っ暗な天井を見ているとわかる。同様に、はやても見えない天井を見つめていることを、ヴィータは察しているはずだった。
彼女は、はやてが諦めてからというもの、ずっとなにかを言いたそうにしていた。恐らく、違和感があったのだ。なにごともなく過ごすはやてがあまりにもいつも通りだったため、逆におかしいと感じたのかもしれない。それが、いまになってようやく正常を取り戻したことを確信したから、こうして切り出してきた。日記を書く手が止まってから今日までのタイムラグは、ヴィータにも迷いがあったのだろう。
「あのさ、これはシグナムが言ってたことなんだけど」
「うん」
「闇の書が完成しても、あたしたちは消えるんじゃない。ただはやての命に溶けるだけなんだ」
「……溶ける?」
「そう。溶ける。姿は見えなくなるし、声も聞こえなくなる。言葉も交わせなくなる。でも、ずっと傍にいるんだってシグナムが言ってた。あたしもそう思ってるし、たぶん、他のみんなもそう思ってる。だから、なにも怖いことなんてない」
はやては歯を食いしばる。
「空に溶けるように眠ることと比べたら、きっと、はやてが話しかけてくれないことの方がずっと怖い。だからさ……、なにも心配することなんてないから、いまはちゃんと話しかけてあげて欲しい」
とても優しい声に、はやては言葉を返せなかった。ヴィータはそれを気にする素振りもなく言う。
「それだけ。寝るの邪魔してごめん。おやすみ、はやて」
はやてはようやく泣くことが出来た。
◆
そして、
はやては最後の言葉を書き込んだ。
『シグナムも、シャマルも、ザフィーラも、いままでありがとう。 はやて』
『主はやての幸せを願うこの感情を知れただけで、生まれてきた意味がありました。どうかお幸せに。 Signum』
『もしも主はやてが幸せであるのならば、守護獣としてこれ以上はありません。 Zafila』
『はやてちゃんの幸せが私達の幸せです。 Shamal』
先を争うように、立て続けに現れるメッセージ。それで、最後のページが全て埋まった。
はやては困ったような、呆れたような、悲しいような、それでいてどこか嬉しいような、複雑な気持ちになった。
「最後まで私のことばっかり……」
「それは仕方ないよ」ヴィータが言う。「みんな、自分が生まれてきたのははやてに会うためだって思ってたから。もちろん、あたしも」
「うん……、私もみんなに会うために生まれてきたんやと思う」
「はやては幸せになるために生まれてきたんだよ」即座に切り返すヴィータ。
「せやから、みんなに会えたんやね」はやても素早く返す。「幸せになるために生まれてきたんは、みんなもおんなじやで」
「うん。だからはやてに会えた。それではやてが幸せになれたなら、みんなも幸せだった」
「むー、なんという永久機関」
「どっちかと言うと、卵と鶏みたいな気がするけど」
「今日のお昼は親子丼にするー」
「あ、いいな」涎の垂れそうなヴィータ。
「お昼、食べていく?」はやては尋ねる。
「ううん、やめとく」ヴィータは首を振る。「食べた直後に実体具現化を解除したら、酷いことになりそうだし。……やったことないけど」
「そか。残念、残念」
しばらく沈黙があった。
「それじゃあ、そろそろ」ヴィータが微笑む。「いままでありがとう、はやて」
「ん……、ヴィータも」
ヴィータは闇の書に手を伸ばし、触れる。そして、目を瞑った。はやてはそれを、忘れてしまわないように、目に焼き付けておくために、じっと見つめる。
十秒、二十秒と時間が流れる。
一分ほど経ったとき、そこにまだ、ヴィータはいた。
「えっと……」ヴィータが目を開いて、ちょっと形容しづらい表情で言った。「……なんか、みんなに置いていかれたみたい」
親子丼が、二人前必要になった。
【残り0ページ】
【闇の書は機能を停止しました】
"Nachthimmel"→"Regenwolken"