羊飼いをめぐる冒険

■1

 前日の夜から延々と鳴り続けたキータッチ音が止んだのは、日が一番高いところにさしかかろうとする頃のことだった。

「う、ぅぉぉお……終わったー!」

 思わず雄叫びを上げた鈴木佳奈は、叫んだ勢いのまま立ち上がるや念願のベッドにダイブした。
 酷使した目は充血してひりひりするし、寝不足のまま無理に働かせた頭は強く締め付けられているかのように痛む。枕に顔をうずめて目を閉じると、耳元で自分の鼓動が聞こえてきた。立て続けに飲んだドリンク剤のせいか、はたまた一仕事終えた興奮のせいか、神経が高ぶってしばらく眠れそうにない。だというのに体は疲れ切っていて、一歩でも動けばその場で崩れ落ちかねない。
 これが新人作家鈴木佳奈の原稿締め切り直前のいつもの風景だった。

 新人という語からわかるとおり、彼女がデビューしたのは最近のことである。
 日本有数の規模を誇り、各分野で第一線級の人材を輩出し続けている汐美学園を卒業した後、大学に進学した彼女はとある出版社の新人賞に作品を応募した。それが見事に入選を果たし、現在は学生と作家の二足のわらじを履く忙しい生活を送っている。おかげで趣味の読書どころか睡眠さえ削ることもしばしばだった。

「うあー、頭痛い……」

 愚痴ったところで、こればかりはどうしようもない。なにも考えずに時間が過ぎるのを待つしかない。
 けれども常にあれこれ考えを巡らせずにはいられない彼女にとって、それは難しい相談だった。現に、もう次の作品について考えはじめている。

 ……今回書けなかった要素を入れてみたいかな。もうちょっと若い主人公で。というか、ずばり汐美学園をモデルに。たとえばあそこの図書館、舞台として映えそうだし。あ、むかし汐美祭でやったイベントのシナリオ、書き直してみようかな。ホラーも面白そうだよね。謎解きの要素も、いまならもっとひねったもの用意できそう。あーでも当時の資料見たらきっと恥ずかしくて悶えるだろうなあ。

 ふわ、とあくびが漏れる。

「……なんでこんなに頑張ってるんだろ」

 構想を練る自分を、少し離れたところから冷静に観察する感覚。
 自分というものをじっくり分析するのは、努めて表面を取り繕って生活していた時期のある彼女にとって手慣れたことだった。
 答はすぐに出た。
 それは『ぼんやりとした不安』とでもいえばいいのだろうか。いけないとわかっていながら講義をサボって遊びに出かけた日、罪悪感や成績についての心配が脳裏にはり付いて離れないあの気持ち悪さに近い。
 要するに、するべきことをしていないときに感じる不安が、物語を書いているときには感じられない。だからきっと自分は物語を書くべきで、頑張っているのだろう。佳奈はそう結論づけた。

「ねむ……」

 思考に一段落付いたところでようやく頭がぼんやりしてきた。もう一度あくびをすると涙がこぼれる。目元をぬぐうのも億劫だった。

「あれ……?」

 眠りの深みに落ちるすれすれのところで、ふと疑問がわいた。

 ……物語を書くべきなのはわかったけど、その理由は?

 けれども、もう遅い。
 考える力は煙のように霧散して、どう頑張ったところで集め直すのは不可能だった。

 ……もういいや、いろいろ考えるのは起きてからにしよ。

 崖っぷちでふらふらしていた佳奈の意識は、ついに足を滑らせて勢いよく転落していった。





■2

 佳奈が目覚めたのは翌日の夜明け前のことだった。半日以上寝ていた計算になる。
 部屋にはエアコンの音だけが静かに響き、暗闇の中にスマートフォンがメールを受信したことを知らせる緑のライトが点滅していた。
 彼女はしばらくベッドの上でぼんやりしていた。もう一度目を瞑って朝日が昇るのを待つか、普段は活動しない時間帯から動いてみるか。

「よしっ」

 結局、ふらふらと揺れ動く無駄で贅沢な時間を存分に楽しんだ後、起きることにした。
 空腹は胃がきりきりするほどだったし、トイレにも行きたくなってきた。シャワーも浴びたい。髪はごわごわで肌もなんだかぺたぺたしていた。喉も目も乾燥して痛い。
 佳奈はまずトイレを済ませ、次に脱衣所に向かった。洗面台の鏡に映った顔がやつれているのは見なかったふりをして、さっさと服を脱いで浴室に駆け込む。
 熱いお湯を頭からかぶると、寝起きで回転の遅かった頭に一発で火が入った。
 さっそく考えはじめるのは一日の予定、ではなく次回作についてだ。
 昨日、眠りにつく前になにか考えていたことは覚えている。なんだったっけ。

「……そうだ、汐美学園」

 いまの生活も充実しているが、思い出にはかなわない。
 かつて、通っていた女子校から逃げ出してたどり着いた新天地で、佳奈はかけがえのない友人を得た。
 表層を取り繕わず素のままで接しても受け入れてくれる仲間たち。
 彼らが人間というのも捨てたものではないと教えてくれたから、佳奈はいまも頑張っている。

 あの輝かしい時代を次回作のモデルにしよう。昨日、彼女はそう考えたのだ。
 だとすれば、まず思いを馳せるべきは図書部をおいて他はない。
 あの頃の生活は図書部を中心に回っていた。飛び込んでくる依頼を解決しようと部員皆が全力を尽くす。チラシを配ったり、イベントの企画を立てたり、仲違いの仲裁をしたり。とにかく何でもやった。言葉通りの何でも屋が図書部だった。世界で一番図書部らしからぬ図書部だったに違いない。
 そうなった原因――全ての始まりは、一人の思いだった。
 白崎つぐみ。
 信じられないほどお人好しの彼女が学園を楽しくしたいと考えて、その活動を行うために図書部を何でも屋に――

「――あれ、なんで図書部なんだっけ?」

 誘われて入部したあとに聞いた話では、幽霊部員しかいない図書部を乗っ取ったということだった。
 けれども、どうして図書部を選んだのか聞いたことはあっただろうか。

 ……部室がほしかった?

 ならば素直に新しい部を設立すればいい。
 実際、白崎つぐみのブレーンとでも言うべき桜庭玉藻の性格ならば、間違いなくそうするはずだった。彼女は部活の乗っ取りなどというトリッキーな手段は選ばない。佳奈にとって、そこは確信できるところだった。
 だとすれば、なにか事情があったに違いない。

 目眩がするほどのお人好しである白崎つぐみと、
 正道のど真ん中を背筋を伸ばして凜とゆく桜庭玉藻。

 あのふたりの先輩に部活を乗っ取らせるほどの愉快な事情。

 ……これが気にならない鈴木佳奈などどうして鈴木佳奈といえましょう!

 俄然として燃え上がる佳奈である。
 さっそく本人らに問いただそうと風呂場を飛び出した。拍子に足の小指を角にぶつけてしばらく悶える。





「なるほど。それで鈴木のためになるなら、いくらでも思いだそう」

 電話越しになんとも気前のいい返事をくれたのは桜庭だった。
 彼女は汐美学園を卒業して海外の大学に進学したが、夏の長期休暇はこちらに帰ってきている。

「ありがとうございます」
「たしかあのときは……」
「あのときは?」

 ワクワクしながら解答を待つ佳奈。

「あのときは………………私が……いや白崎だったか?」
「桜庭さーん」

 焦らしているのかと思ったら、どうやら本気で考え込んでいるらしい。

「いや、すまない。しかしあのとき……いや、やっぱり違うな。……そうだ、たしかにおまえの言うとおり、よその部を乗っ取るというのは白崎や私の発想ではないと思う。となると、高峰の発案だったのかもしれない」

 高峰一景は図書部で唯一の男性部員だった。明るい人柄はともすれば軽薄とも取られかねないものだったが、佳奈の見立てでは、彼はそう見えるよう意図的に振る舞っていた。
 彼の察しの良さと芸人魂、どちらに対しても佳奈は一定の敬意を抱いている。

「そういえば高峰さんも図書部乗っ取り、いえ設立のときからでしたっけ」
「そうだな。高峰なら覚えているかもしれない。聞いてみるのがいいだろう。もちろん私も思い出したら連絡する。せっかく頼ってきてくれたのに、力になれなくてすまない」
「いえいえ、こちらこそ朝から電話してしまって」

 佳奈は頭を下げる。

「うーん、でも高峰さんか」

 部活の乗っ取り。
 たしかに高峰なら思いつくかもしれない。けれどもそれを口にしないのもまた高峰という人物だと佳奈は思っていた。

「どうした? 高峰に連絡しにくいなら私から聞いてみてもいいが」
「あ、いえ、そういうわけじゃ。高峰さんとはいまでもときどきネタを交換し合ってますよ。大丈夫です。それよりも、そういえば高峰さんはどうして図書部に入ったんです? 私が入ったときにはもういらっしゃいましたけど」
「あいつは白崎や私と同じクラスだったんだ。それで……いや、しかし図書部を作るまで話したことは……それどころか名前すら……」

 再び思索にふけりだす。

「桜庭さーん!」
「おっと、すまない。……しかし、おかしいな。それ以前のことも後のことも覚えているのに、図書部に入った経緯だけがさっぱり思い出せない」
「ええ? そんあことあるんですか?」
「私も驚いている。記念すべき出来事だというのに、自分が情けない。おまえは自分のときのことは覚えているか?」
「はい、もちろん覚えてますよ。電車を降りたところで白崎さんに誘われたんです。軍手を借りてゴミ拾いに参加して、ラブレターを拾いました」

 そのラブレターを巡って一騒動あったのも、いまではいい思い出だった。

「そうだったな。……懐かしいな」
「ですね」

 二人して懐古の念に浸る。
 ああ懐かしき青春の日々よ。

「って、いやいや、そういう話の流れじゃなかったですよね」
「そうだった。私がいかに忘れっぽいかという話だった」
「いやいやいや」

 真面目な人の自虐ギャグは拾いにくくて困る。

「ああそうだ、鈴木さえよければ白崎には私から聞いておくが」
「え?」

 予想していなかった桜庭の申し出に、佳奈は思わず聞き返した。

「いえそんな、悪いですから」
「気にするな。というか私も気になるんだ。忘れていることに気づいたら、思い出さずにはいられなくなった。代わりに、もし高峰が覚えているようだったら私にも教えてほしい」
「なるほど」

 物事にきっちり白黒つけたがる桜庭なら、忘れたことをそのままにしておくのはさぞ気持ちが悪いことだろう。
 説明に納得した佳奈は、快く頷いた。

「わかりました。では桜庭さんは白崎さんをお願いします。私は高峰さんに聞いてみますので。結果はまたあとで電話します」
「そうしよう。この時間なら白崎は既に起きているから、さっそく電話してみるよ」

 ……この人どうして白崎さんの起床時刻を把握してるんだろう。

 疑問に思えど口には出さず、佳奈は素直に返事をした。





 そして一時間後。
 白崎も高峰も、図書部を乗っ取ったときのことだけを忘れているという事実が明らかになった。





■3

 六月の半ばであるにもかかわらず日差しは強烈だった。湿気もある。日向は既に人類が活動できる環境ではないと判断し、佳奈はとにかく木陰に逃げ込んだ。
 直射日光を避けるだけでだいぶ楽になった。気温の落差に一息つく。けれども、それも一息分の憩いだった。直火焼きが遠火焼きに変わったようなもので、暑いものは暑い。木陰の気温に慣れてしまえば更なる涼しさがほしくなった。
 佳奈は疲れた老犬みたいにぐったりしながら記憶を検索した。検索ワードは『エアコン』。次々と挙がった候補の中から心引かれるものを選び、いざ安住の地へ、と一歩踏み出したところで携帯電話が鳴った。

 佳奈の一番の友人、御園千莉だった。
 聞けば、桜庭経由で今朝のあれこれを知ったという。

「……それで本当に汐美学園に行ったの?」

 事情を話したところ、御園の最初の反応がそれだった。若干呆れたような響きが含まれている。

「うん。卒業以来だけど、意外に道とか覚えてて自分でもびっくりしたり」

 答えたとおり、佳奈は汐美学園の敷地内を歩いていた。図書部設立に立ち会った三人が誰もその瞬間のことを覚えていないという不思議な事態に直面し、いてもたってもいられなくなり電車に飛び乗った、その結果だった。

「佳奈ってときどきものすごくアクティブになるよね」
「いや〜、そんなに褒められても」
「褒めてないから」

 お約束のやり取りを済ませてから、佳奈は咳をして仕切り直す。

「ごほん。まあ真面目な話、急がないと汐美学園もテスト期間になっちゃうし、取材もままならないかなー、と」
「そっか……そういえば六月末だっけ、実力試験」

 実力試験に関しては、佳奈も御園もいい思い出がない。
 汐美学園は一学年が一五〇〇〇人以上という大所帯。その中で順位を競うのが実力試験だった。在学中は佳奈も散々苦しめられたし、音楽科に所属していた御園も酷いものだった。佳奈の友人の中では桜庭が頭一つ抜けて好成績を収めていたが、他に明るい話題は思い出せない。

「あれ? でも佳奈、大学の試験は?」
「それはまだまだ先だから大丈夫。七月半ばくらいかな」
「そうじゃなくて試験勉強。それに試験前の講義って大事なんじゃないの?」
「あーあー、感度明度1−1、聞こえませんよー千莉さーん、出力上げてくださーい」
「もう……」
「あはは。でも本当に大丈夫だから、そんなに心配しないでってば。日帰りのつもりだし」
「わかった。佳奈を信じる」
「うん。私ぐらいになるとよそで遊んでてもなぜかノートは取れてるからダイジョーブダイジョーブ」
「…………」
「あ、図書館見えてきた。ここの、やっぱりすごく大きい。卒業してわかるありがたみってやつですか。いいなぁ」
「はぁ……」

 なにか諦めるようなため息。それですっきり意識を切り替えた御園が言う。

「そうだ、もしギザ様に会えたら教えて」

 御園のいうギザ様とは、この学園に棲み着いたデブ猫の儀左右衛門のことである。
 彼は最初、図書部の部室に出入りしていたが、白崎が生徒会長になってからは図書部員たちと一緒に活動の場を生徒会室へと移し、結局、佳奈と御園が卒業するまでずっと可愛がられていた。

「ギザ様、元気でいるといいけど……」
「千莉、一番可愛がってたもんね。わかった、見かけたら挨拶してみるよ」
「ありがとう」
「あ、もう図書館だから切るね」
「ちょっと待って」

 耳から離そうとしたスマートフォンを再び近づける。

「どうしたの?」
「佳奈のことだから、どうせなにも考えずに勢いで飛び出したんでしょ?」
「いやいやいや、千莉の中の私ってどんなキャラなの」

 反論するも完全に図星だった。

「小説が完成した次の日、いっつもそんな感じだし」
「うぐっ」

 いわれてみれば前科があった。
 作品を書き上げた達成感と開放感からハイテンションになり、意味不明なメールを知人らに送りつけたことが何度もあった。

「今日は暑いし日差しも強いから、体に気をつけて。それだけ」
「あ、うん。ありがと」

 締め切り明けの体調を気づかう優しい言葉に不意打ちされて、佳奈は子供のように素直に礼を口にする。それから二人は、またねー、と挨拶して通話を終えた。
 そして、ついに念願の図書館に入るときがきた。

「おほー」

 そこは楽園だった。
 爽やかな風は火照った肌を優しく撫で、冷涼な空気は暑さに焼けた肺を癒す。屋外とくらべると明らかに呼吸が楽だった。

「ひゃー」

 あまりの快適さに溶けてしまいそうになる。
 それにこのにおい。学園生時代、部活のためにほとんど毎日のように通っていたころとなにも変わっていなくて、佳奈は自室に帰ってきたときみたいに安堵している自分に気づく。
 が、どんなに快適で安堵できようと、入り口付近で立ち止まっているわけにもいかない。
 ここは学生の街。言い換えれば資金力に難のある若者ばかりの街。街の主役たる彼らが科学の恩恵にあずかろうとすれば、自然と向かう先は限られてくる。その有力候補こそが、この大きな図書館だった。
 要するに、入館者が多いため入り口付近でトーテムポールのように立ち尽くしてラジオ体操みたいに深呼吸する佳奈は邪魔だった。

「あ、すいません」

 つっかえていた後ろの学生に頭を下げ、佳奈はその場をどいた。

 ……さて、どうしよっかな。

 迷うより先に足が動いた。
 自然と目指していたのは図書館の奥部。
 佳奈にとって、楽しい学園生活の象徴とも言える図書部の部室。
 鍵が必要だと考えることもなく、当たり前のように銀色のドアノブに手をかけて。
 果たして、ドアは応えるように抵抗なく開き、部屋は静かに佳奈を迎え入れた。

「…………」

 エアコンの効いていない室内は重々しく熱い空気で満たされていた。
 古い本の香りと、少し埃っぽいにおい。けれども机とその周辺の床には埃が積もっていない。それに、まるでつい先ほどまで誰かが座っていたように乱雑に引かれた椅子が一つだけある。その椅子の座面だけが綺麗で、他の椅子にはうっすらと埃が積もっていた。
 明確な人の痕跡に、佳奈は嬉しくなった。
 彼女が入部する以前から幽霊部員だらけの図書部だったが、どうやらいまはたった一人、図書部本来の活動をしている学園生がいるらしい。別段どうということもないその事実が、どういうわけか心を温かくする。懐かしい学園の懐かしい部室を訪れて、ガードが下がっているのかもしれない。

 佳奈はそっと部室を出た。こういう気分はときどきほんの少しだけ味わって、残りは次のために取っておくのがいい。
 宝箱の蓋を閉めるように丁寧にドアを閉めると、心はすっかり過去から現在に戻ってきた。

「さてさて」

 ……ほんと、どうしよう。

 さきほど御園に指摘されたとおり観光気分で無計画に家を飛び出てきたため、特に予定がないのだ。精々が図書部の部室を調べてみようという程度だった。そうすれば過去の資料が出てきて、図書部誕生の謎が解明できるかも、とわずかに期待もした。
 しかし部室に新しい主がいるとわかれば話は別だ。
 勝手に踏み込んで部屋を捜索するなど言語道断であるし、部屋の主に頼もうにも会えるとは思えない。鍵が開いていたので、あるいは本でも探しに出ているだけかもしれないが、そうでなければ待ちぼうけになるかもしれない。

 佳奈はなんとはなしにスマートフォンを取り出して、メールの確認をしながら歩く。歩調は酷くゆっくりで、漂っているクラゲみたいだ、と頭の隅で考えた。女子生徒とすれ違い、視界の端を赤いスカートがかすめてゆく。電話中らしく、音量の絞られた声が佳奈の耳に届く。

「なにを見ろって? ウェブニュース? え、なんで?」
「あ……」

 脳裡に閃きが走る。佳奈は思わず振り返っていた。
 素晴らしい思いつきのきっかけをくれた女子生徒が遠ざかっていく。白い制服の後ろ姿が曲がり角の向こうに消える。

「……そっか。ウェブニュースなら」

 もしかしたら。
 当時の記事になにか手がかりがあるかもしれない。
 この学園の新聞部はアンテナが非常に高かった。面白そうなことへの食いつきの良さには目を見張るものがある。さすが学園生たちの街といったところか。図書部の活動でいえば、例のラブレターに関する一連の騒動もウェブニュースで取り上げられたことがある。
 手がかりが見つからなくても、それはそれで構わない。自分たちの活動を他人の視点から眺めるのは面白いに違いなかった。当事者だった当時とは違った見方ができるだろう。きっと創作活動の役にも立つ。

 佳奈はさっそく手近な席を確保して、手にしたスマートフォンでウェブニュースのアーカイブにアクセスしはじめた。





■4

『自分らはやりたいようにやっただけっす。たまたまそれがね、二人にとっていい方向に作用しただけで。評価? 関係ないっすよ。僕らのスタイルなんで。褒めてほしくてやってるんじゃないから。ただね、相談事とかあったら、図書部に来てみるのも悪くない選択肢だと思うよ。ま、俺的な意見としてね』
 汐美学園新聞部ニュース2010年4月23日(金)より抜粋

「うはぁ……」

 佳奈はうめき声を上げた。
 記事のあまりの酷さに――ではない。
 この記事が図書部へのインタビューであるという点に対してだった。

「ええ? うそ、ええ?」

 何度見直しても、それは彼女が図書部に在籍していた時期の記事だった。しかも入部した直後。紹介されている図書部の活動についても覚えがある。ちょうど今朝、桜庭と話したラブレターの件だった。
 だというのに、インタビューに応じたとされる人物の名前は、佳奈の記憶にはない。

 ……幽霊部員? いやいや、そんなはずないでしょ。だってこの記事が掲載された当時、私たちはみんなでこの記事を読んだんだから。

 当時、幽霊部員に功績を横取りされたなんて騒ぎは起きなかった。もしそんなことが起きたら、桜庭あたりが幽霊部員をまとめて除霊している。そうすれば選挙活動中に酷い妨害はされなかった。

 念のため、図書部に関する様々な記事を片っ端から探し出して読んでみると、同じ名前がたびたび現れることに気づく。
 これは一体どういうことなのか。

「…………」

 さすがにここまで来れば、佳奈も一つの可能性に思い当たっていた。
 いや、実をいうと朝の時点で連想してはいた。
 すなわち、

「――羊飼い?」

 この学園の生徒なら誰でも知っている噂。
 羊飼いは、いつも学園のどこかにいるけれど、誰の目にもとまらない。懸命に努力をしている人にだけ話しかけ、なんでも願いを叶えてくれる。
 そんな魔法使いみたいな人物が何食わぬ顔で自分たちの隣にいて、一緒に部活動をしていた。
 そういう可能性。

 かつて佳奈は羊飼いについて調べたことがあった。
 羊飼いに会ったという人物に取材をして数日後、その取材対象は、自分が羊飼いについて取材されたことを忘れていた。どころか、羊飼いに会ったことさえも忘れていた。佳奈が詳しく説明して、ようやく思い出した様子だった。

 いまの状況は、その出来事とあまりにも似すぎている。
 他人の身に起きたことなら不思議で済むが、自分が当事者になってしまえばもはやホラーの域である。

「だとしたら、手がかりを見つけた私は不動の被害者ポジション……ッ!」

 なんて美味しい。佳奈は涎をぬぐった。冗談を言える程度には余裕があった。
 実際のところ、彼女はさほど不安を感じていないのだった。むしろ安堵に近いものを感じて戸惑っている。

「筧、京太郎。筧先輩……いや、筧さんかな」

 声に出してみると、謎の人物の名前は自分でも驚くほど舌に馴染んでいた。
 佳奈は、きっと自分は彼をよほど信頼していたのだと確信した。少なくとも図書部の仲間たちを信頼するのと同程度には。
 ならば、することは決まっていた。

 まずは元図書部の友人らにメールを一斉送信。見つけ出した過去のウェブニュース記事のアドレスと、そこからわかること。加えていくつかの頼み事を。
 操作を終え、佳奈は椅子から立ち上がる。現役の学園生たちに、羊飼いについてインタビューしてみようと考えていた。こんなにワクワクするのは久しぶりのことだった。
 そのとき、ぐう、とお腹が鳴った。
 どうやらインタビューの前に昼食をとるべきらしかった。





■幕間

 羊飼いは忙しい。
 導くべき人類の総数が七十億に届こうかという時代に、彼らはわずかに八百ほどしか存在しないのだから当然のことだった。
 老いも飢えも死さえも超越し、距離さえも無視して本から本へと移動する羊飼いたち。
 超人めいた彼らも、姿形だけは人間であった時代のものを引き継ぐ。分裂したり頭が二つになったりはしない。よって一度に相手をできるのは一人のみ。必然的に、導くべき対象を選別することになる。多くの人に良い影響を与える人物を導くことで、広範囲への奉仕とみなすしかないのが現状だった。

 かつて筧京太郎と呼ばれた彼も、そんな羊飼いの方針に従って世界のあちらこちらを巡っている。
 あるときは召使いに紛れて掃除洗濯をしている王女のもとへ。あるときは学院の生徒すべてが楽しく過ごせるよう頑張る副会長のもとへ。あるときは野良猫に話しかけている小柄な少女のもとへ。あるときはカフェテリアでアルバイトに明け暮れる強気な少女のもとへ。あるときは酒場で社会勉強をするお姫様のもとへ。

 そして、あるときは彼も在籍したことのある汐美学園へ。

 若く優秀な学生には可能性が満ちあふれている。それが五万も集まった都市であるから、汐美学園には羊飼いの仕事が世界でも類を見ないほどに多い。そこに学園すなわち一種の閉鎖空間という条件が合わさり、噂が一人歩きする状況ができあがっている。たとえば、スーツ姿のおっさんに助言をもらったとか、美少女が袋小路に入ったきり姿を消したとか。
 そこに新しく一つの噂が付け加わったのは、彼が汐美に腰を据えてからのことだった。

 ――曰わく。
 ――大図書館には羊飼いが住んでいる。

 しかし彼が図書館で羊飼いとして活動したことはない。普段は学園中を駆け回り、図書館で過ごすのはたまたま空いた時間を潰すときくらいのものだった。
 けれども噂になるにはそれで十分。どうせ忘れ去られるからと目撃者について無頓着になっている彼は、そもそも自分が噂になっていることを知りもしない。部屋に入ったきり出てこなかったり、誰もいないはずの部屋から出てきたり、幽霊と同類の扱いを受けかねない有様だった。

 数年かけて築かれてきたスタンスがある日突然変わるはずもなく、この日も彼は空いた時間を潰しに図書館を訪れていた。
 まだ昼すぎだというのに、彼はとにかく疲れていた。午前中に難しい仕事が重なったのだ。気疲れが過ぎて、羊飼いが感じないはずの肉体的な疲労まで感じている。珍しいことだった。仕方ないことでもあった。友人に囲まれて歩いている美少女にカッコイイ台詞と共にミカンを手渡したり(少女はこれがきっかけで天才的な理論を閃く)、道のど真ん中で腕立て伏せをしたり(目撃者の男が失恋から立ち直りスポーツに打ち込むようになった)、羊飼いが人間をやめるというのは羞恥心を捨てるという意味なのだと思い知らされた。

 こういうときは本を読むに限る。
 本はいい。何もかも置き去りにして没頭する感覚は他では得がたいものだ。
 彼は椅子に腰掛けさっそく本を開いた。人を知りたいがために本を読み始めた彼は、人のすべてを知れる羊飼いになってからも、結局読書から抜け出せずにいる。

「あんたは相変わらずよね」
「…………」
「返事ぐらいしなさいよ」

 本を読んでいると、いつの間にか少女の姿をした羊飼いが背後に立っていた。
 彼は仕方なく首だけで振り向く。
 目の前に胸があった。
 彼は胸に話しかけた。

「おまえも相変わらずだな」

 羊飼いになった時点の容姿は永遠のものだ。つまり彼女は永遠に低身長かつ巨乳なのである。

「うっさいわ」

 椅子の脚を蹴飛ばされる。

「久しぶりだな。何しに来たんだ?」
「ん? あー、まあ、同僚のファインプレイをねぎらいに? ありゃ、もうミカンないの?」
「見てたのか……」

 死のう。いや羊飼いは死ねないんだった。彼は頭を抱えた。

「いいじゃん。どうせ忘れられるんだし」
「こういうのは自分が覚えてるかどうかだろ」

 更にいえば彼女も羊飼いなのだから忘れずにずっと覚えているはずだった。

「あんたってそういうの引きずるタイプだっけ?」
「遠巻きにコソコソいわれてスマホのカメラ向けられてみればわかる」
「久しぶりのシャッター音にワクワクした?」

 しない。

「……本当に何しに来たんだ」
「あ、そうそう。ボスから伝言あるんだった」
「ナナイさんか。そういえばしばらく会ってないな」

 ナナイとは、新米羊飼いたる彼と彼女の共通の上司の通称だった。八百ほどいる羊飼いの中で771番という識別番号を割り振られているため、語呂合わせでナナイと呼ばれている(新米二人は羊飼いになって自分の番号を聞いたとき、ナナイという通称の由来を思い出して、自分の番号が801番ではなくてよかったと内心で安堵したものだった)。

「しばらくって、あんたボスだけじゃなくて他の誰にも会ってないでしょ」
「そういやそうだ」

 彼が汐美学園に来たのは、ナナイの協力要請に応えてのことだった。それから数ヶ月ほど滞在して仕事を続けてきたが、ナナイを含め自分以外の羊飼いとは接触していない。

「羊飼いになっても引きこもりとかどうなのよ」
「そうはいうけどな。羊飼いになって人間のことがわかるようになっても、今度は羊飼いのことがわからないだろ」
「あんた前は人間観察とかしてたじゃない」
「必要だったからな」

 誰とも関わらずに生きていける人間はいない。もしもそれが可能だったら、彼は人間観察などせず、ただ人との関わりを絶って一人で生きていたはずだ。
 そして、人間ではない羊飼いにはそれができてしまった。
 図書部に所属したことで芽吹き始めた彼の人間らしさは、肉体と時を同じくして成長を止めてしまっていた。

「それで、伝言だったか? そろそろ別の土地に行けって?」
「さあ? 直接会って話したいことがあるから、今日の夕方にはこの部屋で待っててほしいって」
「わざわざここでか?」
「知らないわよ。私はボスの言葉をそのまま伝えただけだし」

 祈りの図書館ではなく、この元図書部の部室を指定した理由。
 ……万が一にも他の羊飼いに知られたくない話か?

「……わかった。それじゃあ、了解ですと伝えといてくれ」
「私はこれから仕事」
「俺が拒否したらどうするつもりだったんだ」
「すんの?」
「いや、わざわざ夕方なんて曖昧に時間指定してくれたんだ。拒否なんてできないだろ」
「あっそ。じゃあいわないでよ」

 先ほどから彼女は妙に突き放したような刺々しい態度だった。普段はドライであってもシャープではない。伝言の使いっ走りにされて不機嫌なのかもしれない。

「悪かった。仕事、頑張れよ」
「別にあんたみたいに腕立てするわけでもないし大丈夫」
「するときが来たらぜひ教えてくれ」
「はいはい」

 彼女は手をひらひらと振って部屋の奥に向かう。
 彼はそれを見送るでもなく、手元の本に視線を落とす。

「んじゃね、筧」

 数年ぶりに呼ばれた名前に驚いて、かつて筧京太郎だった彼は彼女の後ろ姿に視線を向けた。
 かつて小太刀凪だった彼女は、振り返ることなく本の中へと消えていった。





■5

 電話がかかってきたのは、佳奈がバイトとして世話になったことのある飲食店、アプリオを目指して歩いているときのことだった。
 電話の向こうの桜庭の声はわずかに浮ついていた。感情を抑え平静に振る舞おうとしているが、できていない。それだけで佳奈は頼み事の結果を察した。
 二人は短く挨拶を交わしてから、さっそく本題に入ることにした。

「それで、何か出てきましたか?」
「書いたことを覚えている書類に書いた覚えのない文章がたくさん見つかるのは、どうにも不思議な気分だったよ」
「あ、私はよくありますよ、それ。夜の間に妖精さんが書いてくれてるんです。ほとんどが未知の言語ですけど」
「鈴木は寿命を削りだして文章にしてるんじゃないか? 睡眠はよくとって、規則正しい生活をした方がいい」
「いやー、そうしようと心がけてはいるんですけど。昔はリポペッタンとか飲んで徹夜できたけど、最近無理が利かなくなってきたのを実感してますし」
「ああ、それもだ」
「え? どれですか?」
「昔、徹夜で仕上げてくれた脚本があっただろう」
「あー、ええと……あ、ミナフェスの劇の」
「それだ。引っ張り出してきた台本に、六人目の名前があった。いま、劇の筋書きは思い出せるか?」

 佳奈にとって創作活動の原点ともいえる作品である。忘れているはずがない。

「桜庭さんと白崎さんと千莉と、あとついでに高峰さんに言い寄られるイケメン剣士、京太郎の――あ」
「そう、六人目が必要不可欠な筋書きだ。そして、どうやら六人目は本名をそのまま役名に流用したらしい」

 脚本を書いた佳奈が、それを決めたはずだった。

「……いえ、まったく覚えてません。……うわぁ、こんなことにいままで気がつかなかったなんて」

 佳奈は自分の間抜けさに絶句した。あまりに間抜けで逆に不自然に感じるのは、ただの自己弁護なのだろうか。羊飼いは記憶に残らないどころか、彼らの正体を考察する者から思考力を奪うことができるのかもしれない。

「劇だけじゃない。他にも、図書部がこなした仕事の記録に筧という名前がかなり多く残っていた。それが会長選挙が終わったときからばったりと途絶えている」
「じゃあこの羊飼い、筧さんは、白崎さんが生徒会長になるよう導いてくれたのかもしれませんね」
「かもしれない。私としては、白崎は助力がなくとも会長になった器だと思うが」

 などと口にする桜庭こそが、当時もっとも白崎への助力を惜しまなかった一人だった。白崎自身も、桜庭の助力なくして自分なしと認めていた。

「まあ、私が見つけたのはこれくらいか。残念ながら当時の端末はもう手元に残っていなくて、メールの履歴は確認できなかった」
「そこは他の皆さんに期待ということで」
「そうしよう。鈴木はこれからどうするんだ?」
「私ですか? 私はお昼を食べてから聞き込みでもしてみようかなーと」

 タイミングよくお腹が鳴る。

「実は朝、桜庭さんと電話してすぐ家を飛び出て、駅でおにぎりを買って食べただけでして。ちょうどいまお腹の虫が断末魔じみた悲鳴を」
「睡眠だけでなく食事もおろそかにしているのか。不摂生はいい仕事の大敵だぞ」
「あはは……」

 佳奈は笑って誤魔化す。
 桜庭はため息をついて誤魔化されてくれた。

「聞き込みというのは、羊飼いについてということか?」
「ですね。まあ、あんまり意味はないと思います。せっかく来たんだしやっておこうかな、くらいの気持ちでしょうか」
「そうか、わかった。こっちも引き続き当時の資料やウェブニュースをもっとよく調べてみることにしよう。何かわかり次第また連絡する」
「ありがとうございます」
「ああそれと、あまり無理はしないように」

 このように打算抜きで心配してくれる人が何人もいるのは、くすぐったくも嬉しいことだった。
 佳奈は丁寧に礼を言って電話を切ると、青すぎる空を見上げた。
 太陽は一番高いところを通り過ぎたのに、相も変わらず凶悪な光を放っている。
 遠近感を狂わせる巨大な入道雲は、目が焼けそうなほどに眩しく白い。

 ――あとちょっとでたどり着く。

 額ににじむ汗を拭って、佳奈は少しだけ足を速める。





 すこし遅めの食事中に届いたメールを開いて、その内容に驚いた佳奈はパスタを吹き出しそうになった。むせ返って危うく鼻から出てきそうなほどだった。
 彼女を驚かせたのは一枚の写真だった。ファイル名は『新生図書部結成記念』と題打たれている。写っているのは三名。右から高峰、桜庭、そして見知らぬ男子生徒。ネクタイの色は三人とも赤で、同じ学年だとわかる。背景は図書部の部室だった。
 慌ててメールの差出人に電話をかけると、ワンコールでつながった。

「あ、佳奈ちゃん? いま大丈夫かな」
「はい、大丈夫ですとも!」

 聞く者を安心させる白崎の柔らかい声に、佳奈は鼻息荒く応える。

「白崎さん、この写真が古いスマホから出てきたって本当ですか?」
「うん、本当だよ。佳奈ちゃんからメールをもらって、私も調べてみたの。古い充電器が見つからなくてずっと探してたんだけど、途中で卒業アルバムが出てきて……それで遅くなっちゃった。ごめんね」

 没頭していたことに気づいて大慌てする光景までありありと想像できる話だった。

「あー、探し物をしてると、なぜか時間ドロボウとの遭遇率が跳ね上がりますよね」
「うん、テストの前になるといっつもだよ。あ、そうだ、時間ドロボウといえば、他にも懐かしいクッションが出てきたんだよ。ほつれた糸が気になって、裁縫箱を開けたところでハッと我に返ったの」
「クッションというと、白崎さんが作ってくれた動物のアレですか?」
「うん、そうだよ。佳奈ちゃんのは犬だったよね」
「わんわん。白崎さんのは癒やし系アルパカでしたっけ」
「そうそう。玉藻ちゃんが狐で千莉ちゃんが猫、高峰君は狸」

 ……狸ってどんな鳴き声だっけ。

 ふと意識が脇道にそれた隙を突くように、白崎が言った。

「それでね、図書部から生徒会室に移ったときに、一つだけ余ったクッションがあったことを思い出したの」
「そんなことありましたっけ?」

 佳奈は目を閉じて記憶を探るが、どうにも思い出せない。なにせあの時期は忙しかった。

「何の動物ですか?」
「鷹だよ、鷹。それで、なんだかイメージがぴったりだったから、もしかしたら私があの写真に写ってる人のために作ったのかなって思ったのかなって」
「あー、言われてみれば鷹っぽいかも……」

 写真の光景を思い出す。
 いつも通り口元に笑みを浮かべる高峰。恥ずかしがっているのかすこし頬を赤くした桜庭。
 二人とくらべて、羊飼いかもしれない彼は無表情に近い。じっとこちらを見る目には、猛禽が高空から地表を観察するかのような距離の隔たりを感じる。

「不思議だよね。一緒に写真を撮ったり部活動をしたはずなのに、なんにも覚えてないなんて。きっといっぱい助けてもらったのに、そのことを覚えてないなんて悲しいし申し訳ないよ」
「ですよね。たぶん私もお世話になってるはずですし、どうにか見つけられるといいんですけど」
「うん。もし筧君に会えたら、きちんとお礼を言わないと。それから頑張って昔のことを思い出して、また仲良くできるといいな」

 白崎は友人が増えたかのように楽しげだ。彼女の中では、記憶に残っていない彼は既に身内扱いなのだろう。
 それにしても、と佳奈は疑問に思う。白崎が筧君と呼ぶ声の妙な親しみ深さは見ず知らずの人間に対するものではないように思えるが、これはいったいどうしたことだろう。

「……もしかして、当時のメールとか見つかりましたか?」

 佳奈は唐突に聞いた。

「あれ? なんでわかったの?」
「やっぱりでしたか」
「せっかくびっくりさせようと思ったのに、私の方が驚かされちゃったよ……」
「なんというか、私の知らない親しい友人を紹介してくださるみたいな口調だったので、親しくやり取りしてたメールでも見つけたのかなー、と」
「うわぁ、佳奈ちゃんすごい。そうなんだよ、もう本当に他のみんなと同じぐらい仲良くしてくれてたみたいなの。私のスピーチの練習も、筧君が協力してくれてたんだよ」

 昔は人前でろくにしゃべれなかった彼女だが、汐美学園を卒業するころには大勢の前で見事なスピーチを披露するようになっていた。それでいて人前に立つ恥ずかしさは薄れていないというのだから逆に凄い。

「ほー。恩人じゃないですか」
「うんうん。だからね、筧君について調べるなら、私にできることがあれば遠慮なくなんでも言って」

 助力させてもらうよう頼むあたり、彼女はやはり図書部の生みの親なのだろう。
 佳奈はすこし考えてから口を開いた。

「あ、でしたらあの写真、図書部結成記念とありますけど、撮影した日付はわかりますか?」
「えっと、4月19日かな。タイトルの通り、図書部が活動をはじめた日だよ」
「なるほど。わかりました。ありがとうございます」
「え? なにがわかったの?」

 白崎が不思議そうにいう。電話を耳に当てながら首をかしげているに違いない。

「いえ、別に大したことじゃありません。ただ、やっぱり図書部の結成にはこの人が関わっていたんだな、ということです。やっと最初の謎が解けました」
「そっか……そうだね、うん」

 図書部を作り図書部に愛着を持ちながら、なぜ図書部だったのか思い出せなかった彼女なりに、一つ謎が解けて思うところがあるのだろう。

「でも、せっかく謎が解けたのに、逆に知りたいことが増えちゃったね。ねえ、他には何か私にできることはないかな?」
「なら、もしよろしければ、いま私たちが話したことを他の皆さんにも伝えてもらっていいですか?」
「うん、わかったよ。それに、なにかわかれば佳奈ちゃんに連絡するように言っておくね」
「はい、ありがとうございます」
「あとは……そうだった、佳奈ちゃんが高峰君と同じ道を志してるって玉藻ちゃんが言ってたんだけど……佳奈ちゃん、尼さんになるの?」
「ぶほぉっ」

 佳奈はどこかのデブ猫のごとき悲鳴を上げた。

「ちょ、まったく身に覚えがないんですがっ」
「だって、断食と不眠の難行をこなして悟りを開こうとしてるらしいって。私はきっと仏教の小説を書こうとしてるんだって言ったんだけど、玉藻ちゃんは佳奈ちゃんが出家する気だって言うの」
「あの、どっちも違いますから……」

 ……ぐぎぎ。まさか白崎さんに告げ口するなんて。

 修行僧じみた生活を送る佳奈よりも、素の白崎の方がよっぽど聖人じみている。そんな彼女におかしな誤解をされて、そのままでいられる佳奈ではなかった。

「えっとですね、ちょっと締め切り直前で不摂生してただけですから、心配には及びませぬ」
「そっかー、よかった。変な心配しちゃってごめんね?」
「いえ。桜庭さんはわざとおかしな伝え方をしてくださったんだと思います」

 そうすれば白崎と間でも必ず話題に上ると見越してのことに違いなかった。

「自分一人だとどうしてもブレーキが利かなくなりがちですし、正直ありがたいです」

 ブレーキ未実装は桜庭の専売特許だったはずなのに、いつの間にか佳奈の方が心配される側になっていた。とはいえ、桜庭は桜庭で自分が無理したまま他人を心配できる一種の傑物なので、油断は禁物なのだが。

「というわけで、私も無理をしない程度に調査を進めますので、白崎さんも――」
「うん、そうだね。でも、なんだか私、みんなで活動してたときみたいにわくわくしてきて――」

 そんな風に、お互い無理せず楽しくやろうと取り決めて、二人は会話を終えた。





「たしかに、言われてみればおかしいよな。図書部は女四人に男一人だったのに、俺が最後まで独り身だったのは明らかに異常だろ」

 などと意味不明な供述をしているのは高峰だった。

「だが男がもう一人いたなら納得だ。たぶんその筧ってやつがよっぽどモテたに違いねえ。ま、それはそれで、一人なのにまったくモテないのと二人いるのに片方だけまったくモテないの、どっちが酷いかって話になるけどな」
「ですねー。この話題は高峰さんには危険すぎるのでやめましょう」

 佳奈は会話をぶった切った。

「それで、他に何か違和感を覚えるようなことはありませんか?」
「いや、これといって思い浮かばんな。すまんがどうやら俺はここまでのようだ。あとは頼りになる他の連中に任せた」
「そうですか。では名残惜しいですけど、これで。せっかく電話してもらったのに用件だけですみません」
「いいや、俺と佳奈すけの間に無駄な会話なんて必要ねえ。そんなもんなくたって土壇場で通じ合えるのが真の芸人仲間ってもんだろ?」

 ――違うか?

 万感の信頼が込められた熱い問いかけだった。
 佳奈は己の中で心が打ち震えるのを感じる。

「はい! そんなものなくとも佳奈と高峰さんはズッ友です! ……あ、千莉からメール来ましたんで失礼しますね」
「おう。俺の代わりに千莉ちゃんにもよろしく言っといてくれよな」

 急に素に戻った佳奈に寸分遅れず、高峰も元のテンションに戻る。さすがの芸人仲間だった。

「それでは」

 佳奈はスマートフォンを耳元から離す。
 そのときだった。
 スマートフォンのスピーカーから、距離の開いた佳奈の耳にも届くほどの大音量。

「――破ァ!!」

 高峰の裂帛のかけ声が響き。
 直後、爆発音らしき轟音。

「……!?」

 佳奈は何事かと驚き、慌てて高峰に呼びかけた。

「高峰さんっ? どうしたんですか?」
「――――」
「高峰さん!」

 数度呼びかけるも返事はない。
 代わりに、誰かに話しかけるような声がかすかに聞こえてきた。
 高峰の声だ。
 どうやらマイクから離れたところで喋っている。
 佳奈は遠い声を拾おうと耳を澄ました。

「――危ないところだったぜ。あんなもんがいやがるとはな。遊び半分で山には来るもんじゃねえ。女連れなら特にな」

 聞こえてきたのはなにやら物騒な台詞だった。

「ん? おっと、電話つながりっぱなしだったか」
「ええっと、高峰さん?」

 ようやく気づいた高峰に恐る恐る声をかけると、彼はいつもの調子であっけらかんと答えた。

「ま、ちょっとした人助けみたいなもんだ。佳奈すけも山には一人で入るなよ?」
「は、はぁ……」

 何が何だかわからないけど、とにかく寺生まれってすごい。佳奈はそう思った。





差出人:御園千莉
件名:メイド服
日付:6月16日 15時34分

 白崎さんのクッションの話で思い出したけど
 図書部の部室から生徒会室に移るとき
 メイド服が一着余らなかったっけ?
 それと、グザ様には会えた?


差出人:鈴木佳奈
件名:Re:メイド服
日付:6月16日 15時39分

 言われてみればあったような、なかったような?
 メイド服って千莉が着てたのとは別のだよね。

 残念ながらギザ様には会えなかったよ
 また旅に出たのかも





■6

 既に空は茜色だというのに、気温は一向に下がろうとしない。
 たまらずコンビニに駆け込み買ったペットボトル。水滴したたる青いラベル。冷たい水を喉に流し込む。もはや美味しいとは感じられず、ただただ気持ちいいという感覚だけがあった。

「くぅ〜」

 佳奈は疲れていた。
 蒸し暑い中を歩き回っての取材活動は、運動不足気味な彼女には厳しいものだった。ただし、苦労しただけの収穫もあった。
 プロ作家としてデビューを果たしたとき冗談で作った名刺が飛び込み取材の役に立って、なんだか面白かったこと。
 そして、学園生たちが囁く羊飼いの噂。

 ――大図書館には羊飼いが住んでいる。

 どうやら妖精さんのような扱いらしい。間違っても図書館に無断で棲み着く不審者というイメージではない。
 が、羊飼いという曖昧な像ではなく筧という具体的な個人をロックオンしている佳奈には、図書館で寝起きしたり飲み食いする画が容易に思い浮かんでしまう。少なくとも、妖精よりは実在を確信できるだけ見つけ出すのは容易いように思える。もっともそれは妖精との比較であるからで、これから図書館中をくまなく探したところで、やはり筧を見つけ出すことはできはしないだろう。

「はぁー。今日はここまでかなぁ……」

 過去の記録の中に姿を見出し、現在の噂の影に気配を感じ取ったものの、結局はそこまでだった。
 見つけ出すためには、あと一手が足りない。
 偶然の出会いを期待して図書館で待ち構えるとして、果たしてどれだけの日数が必要なのか。そもそも、一種の超常の存在を相手に待ち伏せが通用するのかどうか。羊飼いは人に助言を与えるために現れると言うが、そこには選ばれた者の前にしか姿を現さないというニュアンスがある。

 西の空は真っ赤に焼けている。あと一歩のところで陥った手詰まり感が、今まで無視できていた疲労を強く意識させる。日が暮れたら、ここまで溜め込んだ疲れがどっと来る予感がある。
 まさにこの瞬間、誰よりも助言を必要としているのが鈴木佳奈だった。
 だからだろうか。

「――最後にもっかい図書館に寄ってみたら?」

 びっくりして振り返る。
 けれども誰もいない。
 辺りを見回しても、そっと囁く程度の声が届く範囲には誰もいない。

 聞き間違い? あんなにはっきり聞こえたのに? 疲れているせい?

 そんなはずがない。
 そして彼女は、懐かしい扉を再び開く。





■7

 差し込む夕日。
 少し埃っぽいにおい。
 ページをめくる音。
 白い制服。
 椅子に座り、広げた本に視線を落とす彼の姿。

「――――」

 瞬間、あらゆる記憶が蘇った。

「筧、さん……?」

 絞り出したかすれ声に、彼が顔を上げる。
 少し驚いた表情をしている彼は、あまりにも当時のままで。
 佳奈は過去に戻ったような錯覚を抱く。
 あるいは今まで白昼夢でも見ていて、自分はいまだに汐美学園の一年生で、これからみんながこの部室に集まってきて、また図書部の忙しい活動が始まるのではないか。

「よう、佳奈すけ」

 まるで昨日の続きみたいに声をかけられて、佳奈は胸の奥が熱くなる。

 どうして忘れていたのか。
 どうして忘れていられたのか。

 身も心も焦がす激しい恋ではなかったけれど、彼を前にすれば蘇る、それは胸の奥で密やかに燃え続けていた小さな火種の熱だった。

「本当に、筧さんですか?」

 相手は近づけば消えてしまう陽炎かもしれない。佳奈は慎重に尋ねた。
 だというのに、彼はあっさりと答えた。

「佳奈すけ、ちょっと年取ったな」

 遠慮のないからかいの言葉に視界がにじむ。
 目に涙を溜めながら、佳奈は昔の調子で笑顔を作った。

「あ、ひどい。成長したって言ってくださいよ。いえ、一部はほとんど変わってませんけど! でもそれを言うなら、筧さんこそ全然変わってなくてびっくりですよ、もう」

 これぞ鈴木佳奈といった返答に、彼は目を細める。まるで眩しいものでも眺めるかのように。





 ――筧京太郎についての記憶。

 かつて図書部の部室を幽霊部員に乗っ取られたとき、彼はどのようにしてか部室を取り戻し、図書部員たちと選挙を戦い、これに勝利し、そしていつの間にか姿を消していた。誰も疑問に思うことはなかったし、そもそも最初からいなかったように彼の存在を忘れていた。

「筧さんが羊飼いだったんですね」

 勧められて椅子に座った佳奈の、最初の言葉がそれだった。
 この状況で彼女は冷静だった。自分でも意外に思っている。驚きで麻痺しているのかもしれなかった。

「今はな。俺たちを巡り合わせたのは別の羊飼いだった。俺がなったのは結構あとのことだよ」
「どういうことですか?」

 口をついて出たのはいろいろな意味が含まれた問いかけだった。
 それを理解したようで、彼は少し考えてから口を開く。

「人の一生について記された本と、すべての人の本を収めた大図書館があるとする」
「え?」

 唐突に飛んだ話に戸惑いながらも、佳奈は頭を回転させてついて行こうとする。

「ええっと、つまり人の未来は決まってるってことですか?」
「いや、そうじゃない。ただその本には、その人のあらゆる可能性、辿るかもしれない道、そのすべてが記されてる」

 彼が手の平をつきだし、空間を拭うようにさっと動かす。すると、その軌跡に淡く光る画像が現れた。そこには樹形図らしき図形が描かれている。
 佳奈が驚いているうちに彼がもう一度手を振ると、図形は跡形もなく消えてしまった。

「羊飼いたちはこの本を頼りに、誰かが分かれ道に差し掛かったところに立ち会って、助言するわけだ」
「でもすぐに記憶から消えてしまう? あ、だから噂は残っても正体は曖昧なまま……それに、何人もいるから目撃情報がまちまちなんですね」

 彼は頷いた。

「羊飼いになるときに、自分の本を捨てるんだ。それで人の記憶に残らなくなる。老いることも死ぬこともなくなって、人を幸せにするために働き続けることができるようになる」

 学園生時代から姿が変わっていないのは、そういうことらしかった。
 想像もできない話だ。いや、想像してはいけないというべきか。
 生物として自然な、本能的な警鐘に従って、彼女は話の焦点を別のところに向ける。

「それじゃあ、筧さんは人を助けて回ってるんですか?」
「そうだよ」

 彼があまりにも自然に認めるので、佳奈は言葉に詰まってしまう。
 彼の態度には誇らしさも屈託もなく、まるで機械じみている。
 羊飼いになってから今日までの日々は、別段幸せを願うわけでもない人々を、義務として助けて回るものだったのだろうか。
 だとしたら、どうして彼は羊飼いになど―――――――――――
 ―――――――――。

「――あのとき」

 不意に、佳奈はある可能性に思い至ってしまった。
 そのとき彼女の心を満たした感情には、人によっては絶望と名付けることもあるだろう。

「あのとき、筧さんはそうやってこの部屋を取り戻してくれたんですか?」

 具体的な方法はわからなくとも、先ほどの本があればどうにでもやりようがあることはわかる。
 その本のために、彼が羊飼いになったのだとしたら。

「決めたのは、俺だよ」
「それだけ大事に思ってくれていたんですね」

 返事はない。
 彼にとっては言うまでもないことだったろうし、佳奈にとっても聞くまでもないことだから。

 ……でも、だったらどうして。

 感謝するべきだった。あれほど他人を寄せ付けなかった彼が、他人のために自分を犠牲にしたのだ。その思いのほどは、佳奈の想像の及ぶところではない。
 それでも。

「……大事に思ってくれていたなら、どうしてみんなを、私たちを残して行ってしまったんですか」





 それは糾弾の言葉ではなく、置き去りにされた少女の哀哭だった。

 ――だからこそ、胸に刺さる。

 かつて置き去りにされ、同じものを抱いたことのある彼だから。
 夕日の中に消えてゆく背中。口にできなかった想い。
 あのとき腹の底に押し込めてしまった感情が、今や自分自身に向けられている。

「部室を取り戻せなくたってよかったんです。ただ一緒にいたかった。一緒に頑張ることができたら、それだけで楽しかったのに、どうして……」

 ……そうだ。どんな道も、みんなで一緒に歩けばそれだけで楽しい。そんなこと、知っていたはずなのに。
 図書部は学園を楽しくするために活動するが、同時に図書部員も楽しくなければなれない。そういう方針で活動してきたのだから、理解しているはずだったのに。

「ごめんな」

 口にしてから彼は気づく。自分の口から出た声は、どこか聞き覚えのある響きだったことに。

「あのときは、ああするのが一番だと思ったんだ。……結局、誰かに踏み込まれるのが怖かったんだろうな」

 皆のためと言いながら、自分の臆病さを克服できなかっただけのこと。
 だというのに、

「ごめんなさい」

 彼の正面に座るかつての後輩は、涙をぽろぽろこぼしながら謝罪の言葉を口にする。その理由が彼にはわからない。

「なんで佳奈すけが謝るんだ」
「私たち、筧さんに頼ってばかりでした。私にとっての筧さんが、筧さんにはいなかったんですよね」

 人前で涙を流し内心までも吐露してみせる彼女は、なるほど既にかつての彼女ではない。その眩しいまでの強さの一助となったのは、皮肉にも羊飼いになる前の筧京太郎という人間だったらしい。

「ですけど、それでも……それでも筧さん一人だけに犠牲になってほしくはありませんでした。我が儘だとはわかってます。でも、一緒にいたかったんです」
「そうか……羊飼いとしての最初の仕事からして、失敗してたわけだ」

 人が主、羊飼いが従。それが羊飼いのあり方だ。
 彼の選択は、導きどころか押しつけだった。

「ごめんな」

 結局、彼が口にできたのはそれだけだった。





 二人はしばらく無言でいた。
 部屋は夕日の甘い色に染め上げられ、空気は穏やかにたゆたっている。
 まるであの日々の続きのような。けれどもどこか違うのは、二人ともあの頃から少しだけ変わったからだろう。
 佳奈は図書部での経験を糧に、少しずつ素の自分を表に出せるよう努力してきた。筧は今のこのとき、羊飼いらしからぬ後悔と人間らしい感情を手に入れた。

「筧さん、知ってましたか?」

 沈黙を破ったのは佳奈だった。静かな雰囲気が少しもったいないと思いながらも、彼女は前に進むことを選ぶ。

「私、筧さんのことが好きだったんですよ。その記憶は消えてしまいましたけど、さっき思い出しました」
「そうか。ごめんな」
「うわ、いきなりごめんなさいされましたよ」
「そういう意味じゃねーよ」
「わかってます」

 佳奈は照れ隠しに笑ってから、少し真面目な表情を作って言葉を続けた。

「記憶は残ってなくても、きっと思いは残ってたんです。でも、それがどういうものか自分でもわからなくて……。で、その得体の知れない感情をもてあまして、モンモンとしたものを解消するために文筆活動に走ったら、なんかプロの作家になっちゃいましたよ。一番読んでほしい人のことは覚えてなかったのに、おかしいですよね」
「一読者として読ませてもらってたよ」
「だったら感想の一つくらい言いに来てくれたってよかったじゃないですか……」
「ああ、そうだな。ごめんな」
「なんだか筧さん、謝ってばっかりですね」

 苦笑。
 再びしばしの沈黙。

 佳奈は筧の目を見つめる。そこに拒絶の色がないことを確認してから、そっと手を伸ばす。
 テーブルの上で、彼の手に佳奈の手が重なる。
 彼の手は温かくも冷たくもなかった。

「戻れませんか、あの頃に」

 目を瞑れば今でも思い出す、なにもかもが楽しかったあの頃に。

「残念だけど、過去には戻れないよ」
「ですね」

 仕方ない、と佳奈は微笑む。

「ですから、これからまた新しく始めませんか?」

 彼女はそうできると信じていた。
 けれども筧は首を振った。

「羊飼いは人の記憶に残らないって言っただろ。佳奈すけも、一週間もすれば今ここで話したことすら忘れてるはずだ」
「でも、私は思い出しました」
「それは俺も驚いてる。普通はありえない」
「なにか方法はないんですか?」
「どうかな……」

 迷うような声色を、佳奈は耳聡く捕まえる。

「あるんですね?」
「いや……」

 筧はまぶたを閉じ、開き、言った。

「たとえ記憶に残ったとしても、自分の本を捨てた俺が、佳奈すけの隣に立って一緒に歩むことはできそうにない」
「そんな……それじゃあ筧さんはずっと一人で、誰かを助けるために生きていくんですか? そんなの――」

 すがりつくような声だった。
 指の隙間から水がこぼれてゆくのを嘆く声だった。

「ありがとう。そう言ってくれるだけで十分だ。それでも足りなくなったときは、佳奈すけの本を楽しみにするよ。何か楽しみがあれば、案外頑張れるもんだ」


「いや、その必要はない」


 部屋の奥から声。
 いつの間にかそこに立っていたのは、スーツ姿の男性だった。
 佳奈は思わず彼と筧を見比べてしまう。どういうわけか似ていると感じてしまったからだった。

「彼女をここに誘導したのはナナイさんでしたか」

 筧が言う。佳奈と話すときとは声の質が違っていた。
 状況について行けない佳奈は黙って様子を見ることにした。

「どういうつもりですか? それに、必要ないというのは?」
「言葉通りの意味だよ。もう君は頑張る必要はない。羊飼いは誰かを大切に思ってはいけない。君は羊飼い失格だ」

 顔に浮かべた微笑みにそぐわない、厳しい物言い。
 筧が少し驚いたような顔をするのは、そのギャップのせいか、言葉の意味するところを理解したせいか。

「大切な人たちがいたから、彼らを含む人類を幸せにしようというのは間違っていますか?」
「今の君には、そこの彼女の人生とその他大勢の人の人生を、同じ価値あるものとして扱うことはできないのではないかな?」

 筧は言葉を返せない。
 その沈黙は佳奈にとっては喜ばしいものだったが、状況はそう単純ではない。

「……では、俺はどうすればいいんですか?」
「羊飼いになるよう誘い掛けた私が言うのは申し訳ないけど、だからこそ、これを告げるのは私の義務でもある。残念だけど、君には羊飼いをやめてもらおう」
「祈りの図書館に俺の本はもうないはずですけど」
「ときどき暴走する羊飼いがいるということは知っているね。私たちも、何の対策もしていないというわけではないんだ」
「見習い期間ですね」

 ナナイというらしい彼は頷く。

「他には、たとえば君も自分の本を抹消するとき、その一部の切れ端で栞を作ったはずだ。それを元に本を作り直せばいい」
「そんなことが……」
「もちろん簡単なことではないよ。本にするには、栞では記述が少なすぎる。だから他の本の力を借りないといけない」

 そのとき、いままで筧に向いていた男の視線が、佳奈の方に向けられた。
 目が合う。
 何の特徴もない、すぐに忘れてしまいそうな目だった。

「新しく本を作るというよりは、誰かの本の一部になるというのが正確かな」
「他人の運命に相乗りさせてもらうということですか」
「そうだね。文字通りの運命共同体になる。相手の承認もいるから、簡単なことではないけれど」

 相手。自分を置いて他にいない。理解した佳奈は、初めて会話に参加する。

「その、運命共同体っていうのは、具体的にはどういうことなんでしょうか?」
「佳奈すけ――」
「いいんです。もし私にできることがあるなら、やらせてください」

 止めようとする筧を遮って、佳奈は言う。

「今度は私が筧さんを助ける番ですよ。ですからここは私に任せて先に行ってください。あと、帰ったら結婚してください。二人でパン屋さんをしましょう」
「おいやめろバカ」

 あまりに不吉な宣言に筧がうろたえる。

「フォヌカポゥ」
「ん? ……なんだ、ただの猫ですか」

 いつの間に現れたのか、丸々と太った猫が椅子に腰掛けてM字開脚していた。ちなみにどう見てもただの猫ではない。

「佳奈すけ」

 ふざけすぎた佳奈をたしなめる声。

「すいません。少し緊張してます」

 言ってしまえばこれから口にする言葉はプロポーズに近い。緊張して当たり前だった。
 佳奈は咳払いして姿勢正して、

「それでは真面目な話をしますけど……筧さん、図書部の活動は楽しかったですか?」
「そうじゃなきゃ、部室を取り戻そうなんて思わない」
「でしたら今度も……今度こそ、あの頃と同じように一緒に頑張りましょうよ。一緒に生きていければ、それだけで楽しいですよ。人を幸せにするっていうのは、たぶんそういうことなんだと思います」

 相手だけではダメだし、自分だけでもダメ。
 学園を楽しくするけれど、自分たちも楽しくなければいけない。
 人間をやめたものを羊飼いと呼ぶならば、羊飼いの正反対を行く図書部こそがもっとも人間らしく。
 そこに身を置いた経験は、佳奈にとっても筧にとっても、きっと無駄ではなかった。

「……そうだな」

 氷が溶けるように、筧が答える。
 佳奈は今度こそ逃がさないように彼の手を取った。
 握り替えしてくる手は温かい。

「話は決まったようだね」

 今まで静かに見守ってくれていたナナイが言う。わずかに細められた目は、まるで遠い星を眺めているようだ。

「運命共同体などと言葉にすれば大げさだけど、実際は大したことはない。なにかと縁ができて、離れがたくなるくらいのことだよ。本でいう別冊のようなものかな」
「そうですか。でしたら、そうします」

 変わらぬ微笑みで説明するナナイに、佳奈は答えた。

「君も、それでいいのかい?」

 今度は筧が尋ねられる。

「はい」
「そうか。では、その通りにしよう。筧君、今までご苦労様でした」

 つないでいた筧の手にわずかに力がこもるのを、佳奈は感じる。





「そうか。では、その通りにしよう。筧君、今までご苦労様でした」

 ナナイにその名を呼ばれるのは、筧が羊飼いになってからは初めてのことだった。もう羊飼いとはみなされないということなのだろう。
 もっとも、今回のナナイの采配は、最初から筧京太郎という人間を導くつもりだったようにも思えるが。

「こちらこそ、今までありがとうございました」

 あるいは、この結末もナナイにとっては数ある仕事の一つにすぎないのかもしれない。いつもと変わらぬ微笑みを前にすれば、そうも思えてくる。

「ナナイさんは、これから――」
「うん?」
「いえ……」

 筧は言葉を飲み込んだ。

 ナナイはこれからも、今までと変わらずに生きていく。
 誰かの幸せを願い。誰の記憶にも残ることなく。たった一人。
 そんな彼に、去って行く者が言えることなどあるのだろうか。
 あるとすれば、それは――

「俺は今、幸せです。これからもっと幸せになる。だから……ありがとう」

 俺を導いてくれて。





■8

 そうして二人は図書館を出た。
 途端、どちらともなく深く深く息を吐く。まるで暗い迷宮から抜け出した心地だった。

「苦悩のふるさとは捨てがたく、か……」

 沈む直前の真っ赤な日差しが、筧には熱く感じられた。そのような感覚は久方ぶりのことで、戻ってきたことを強く実感する。
 もはや彼はただの人間だった。

「あ、聞いたことある気がします。なんでしたっけ?」
「歎異抄だな。親鸞聖人の言葉だって言われてる」
「あれ? そうでしたっけ? 私はなにかの小説で見かけたような……」

 佳奈は難しい顔をして唸っている。記憶を探っているらしい。
 そのうちに諦めて、

「最も苦悩の大いなる場合、人は、だまって微笑んでいるものである」

 などと対抗するように諳んじてみせた。

「太宰治か。どうしたんだ、急に」
「いえ、ナナイさんでしたっけ、あの人を見ていたらふと思ったんです。害がなさ過ぎて不安というか、ちょっと不気味かもって。とても苦しませてしまっているのに、こっちはそれにまったく気づいてないのかも、とか考えると、正直とても怖い人です」
「実は俺の親父なんだ」
「とても素敵な人でしたね! ……あの、本当に?」
「冗談だ」
「ちょっと筧さん、そういう怖い冗談はやめてくださいよ」
「悪かった。さて、それじゃあ―――」
「でしたら、とりあえず私の家に―――」
「いいのか? 佳奈すけ、一人暮らしで―――」
「何をいまさらなことを―――」





 その背中を見送る影が二つ。

「今回の件は、すべて君が?」
「はい。私の独断です」
「そうか。君に呼び出されて行ってみたら、驚いたよ。まさか彼があれほど疲れ切ってしまっているとは思わなかった。彼には申し訳ないことをした」
「もう見てられないというか、向いてないんじゃないかと思ったので、勝手にやらせてもらいました。ボス、今回の件で何かあれば、それは私が」
「いや、すべて私の責任だ。君が心配する必要はないよ」
「でも――」
 なおも言いつのる彼女を抑え、ナナイは静かに言った。
「立派な羊飼いになったね」
「え?」

 やがて二人の姿も夕日に溶けて消えてしまう。
 辺りには静けさが戻ってきて、すべては元通りになる。

 けれども、もう大図書館に羊飼いはいない。