じゃぷにか闇の日記帳

10b

 

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 はじめにあったのは、またか、という苛立ちだけ。
 闇の書と共に転生し、魔力の蒐集を行うためだけの生。主に使役されるために生まれてきた命。
 同じことを、もう幾度繰り返したか知れない。
 古い記憶は輪郭が曖昧で、ただ不愉快な手触りを残すのみとなっている。
 此度の生も、そこに新たなる一段を積み重ねるための苦行にすぎない。
 そう思っていた。





 最初の覚醒は、主の前に現れるときだと決まっている。そのつもりでヴィータは目を開いた。
 しかし、そこに主はいない。
 代わりにいたのは、同様に訝しげな表情の三人。共に旅を続けてきた仲間たちだった。

「どうなっている?」皆を代表して疑問を口にしたのはシグナム。

 もちろん、答えられる者はいなかった。
 この手の、戦闘に関係のない状況判断においては、シャマルが答えられない時点でほとんど詰んでいる。故に、最後の防波堤たる彼女が感じる責任は、それなりに重大なものだったのだろう。視線をせわしなく動かしながらも、ヴィータではどのようなものなのかすら理解できない魔法をいくつも走らせている。
 その間、ヴィータを含めた他の三名は、周囲への警戒を続けていた。
 どれほどの時間が経ったときだろう、シャマルがある一つの成果をたぐり寄せた。
 それは、モニタのように浮かぶ、四角く切り取られた光景だった。
 しばらく、無言でそれを眺める。

「外……?」それが自分の口からこぼれ落ちた言葉であることに、少ししてからヴィータは気がつく。

「闇の書の中、か」続いてザフィーラが呟いた。

 シャマルが頷く。「理由はわからないけれど、ここは闇の書の中だと思う」

「おいおい……」ヴィータは咳き込むように笑った。たぶん、頬が引きつっている。戦闘中、思いもしない大打撃を受けたときに出てくる笑いに似ていた。

「ごめんなさい」

「いや、シャマルに言ったんじゃない」ヴィータは首を振り、それからリーダーを見る。「どうする?」

「何ができる?」シグナムがシャマルに尋ねる。

「まだ、それも……、もう少し調べてみないと……」

「ならば決まりだな。シャマルには負担をかけるが」

「ええ、大丈夫。きっとなんとかしてみせるわ」

 そう言って、シャマルは再び作業に戻った。彼女の表情は真剣そのもの。対照的に、他の三人は若干気が緩んでいた。闇の書の中にいると知り、安全度は高いという判断を下していた。それでも、なにかあれば即座に動くことはできる。即座に動いたところで、闇の書の中で何ができるか、どこまでできるかはわからないが、盾ぐらいにはなれるだろう。
 それからは、特に会話もなく時間が経過した。
 シャマルが最低限の仕事を終えたときには、既に騎士たちの護衛任務は休憩に変わっていた。ヴォルケンリッター全員が、各々の働くべき時というものを弁えているので、不満の声はない。彼女は判明した事実の内、必要なことを説明した。
 といっても、判明した事実はさほど多いものではなかったようだ。よって、ヴィータが受けた説明はほんの少しといっていい。更にその中で、この先もしっかり記憶している可能性のあるものというと、これは一つか二つといったところ。きちんと覚えるというよりは、忘れようもないことにそれは近い。

 一つ目は、ここが闇の書の中であること。そして、映像だけならば外のものを見られること。また、守護騎士たちは実体具現化して外に出ることはできないこと。
 二つ目は、外の光景の中に見つけた小さな赤子が、新しい主であること。

 特に二つ目に対しては、説明を聞いた全員が言葉を失った。
 闇の書は主に相応しい人物を己の意志で選ぶ魔導書であり、その選定の基準には、魔力資質が当然含まれる。それがどの程度のものなのかは、これまでの主の力から、かなり正確な予想が可能である。
 だからこそ、ヴィータたちは絶句したのだ。
 その基準を、あの赤ん坊が満たした?
 たしかに魔力の大きい人間のほとんどは、先天的な力としてそれを所持している。しかし、それにも限度というものがある。魔力量とは、身体の成長具合やその過程での負荷が大きく関係し、加齢に従って増減していくものなのである。
 闇の書の主が普通という範疇に収まらない魔法使いであることは、騎士たちにとってもはや常識的なことではあったが、新たなる主は輪をかけて普通ではないようだ。

「っていうか、それじゃあ、あたしたちはこれからどうなるんだよ……」

 驚愕の潮が引いていくと、新しい疑問が生まれた。
 当然、この先のことである。
 マスターは赤ん坊。仕える騎士はひきこもり。
 冗談でも笑えない。
 奴隷のようにこき使われるのには嫌気がさしていた。だからといって、それを免除するから、代わりに何をするでもなくただ過ごせと言われても、はいそうですかと素直に受け入れるのは難しい。

「わからない」シャマルが弱々しく答える。「でも、たぶん、この子のリンカーコアが成熟すれば闇の書もきちんと目を覚まして、私達も外に呼び出されると思う」

 守護騎士が呼び出されないのは、主のリンカーコアの未成熟が原因。
 ならば何故、自分たちがこんなに早くから意識を持っているのか。これには、シャマルはわからないと答えた。

「もしかしたらだけど……、長い旅の途中で蓄積されてきた異常が、目にわかる形になって表に出たのかもしれない」

「んなことはどーでもいい。それより、リンカーコアが成熟すればって、あと何年かかると思ってるんだよ」

「ヴィータ」シグナムが諫める口調で言う。「シャマルに当たるな」

 ヴィータは舌打ちする。

「ううん、私は……」シャマルは首を振る。

 この日はこれで解散となった。
 それからも、危険らしい危険は見つからなかったので、個々がそれぞれに時間を過ごすことになった。
 といっても、何もない空間である。することは何もない。

 ヴィータが見たところ、どうやら他の三人は諦念を覚えているようだった。使い勝手のいい道具として扱われていた過去となにも変わらない。彼らと違ってただ一人苛立ちを抱えているヴィータにしても、それは昔からのこと。
 結局、機械のように酷使されていたのが、機械のように停止しているだけ。同工異曲もここに極まれりである。
 いや、これならば、あるいは、頭上に遙か彼方まで広がる空を見られただけ、かつての方がいくらか良かったかもしれない。それが戦船と厚い雲に覆われていたとしても、空は空だ。
 連日の戦いに疲れ果てた体に、地下の酷い寝床をあてがわれた時代もあった。そのようなとき、ヴィータは一人で夜空を眺めた。ときおり見える星を眺めてなにを思ったのか、なにか思ったのか、それさえも覚えていない。けれども、空を見たことだけはよく覚えている。
 そのような自由さえ、いまはない。
 代わりに見えるのは、将来自分たちを使うことになるであろう幼い主。まだ言葉も理解できず、自分の足で歩くこともできない、生まれたばかりの弱い命。
 これが育って自分たちを道具のように扱うのだと考えると、酷く情けなくなる。
 けれども、他に見るものがなく、時間を潰すに適したものも存在しないので、ヴィータは一人でそれを見続けた。
 すると、音のない世界ではあっても、色々とわかってくることがあった。赤ん坊の名前や家族構成、それにこの世界には魔法文明が存在しないこと。シャマルが機能を拡張し、家の中のほとんどを見渡せるようになると、更にたくさんのことがわかった。

 時間は流れ、いつの間にか、その子の成長を眺めるのが楽しみになっていた。それには、その子が家族を失い、また脚が悪いことも影響していたのかもしれない。同情なのか、共感なのか、それとも苦しい境遇にあってもどうにか一人で生きているのを応援したかったのか、それは自分ではわからない。けれども、良い感情を持ちながら眺めているのは確かだった。
 女の子の生活は代わり映えのしない静かなものだったが、それは夜空も同じこと。
 闇の書の機能は更に拡張され、空を見ることもできるようになっていたのに、ヴィータは女の子の姿を見続けた。
 そんなある日、一人でいるヴィータを心配したのだろう、シグナムが話しかけてきた。どのような会話から始まったのかはすぐに忘れたが、随分と久しぶりだったような気がした。そして、なぜかシグナムも一緒に少女を見るようになった。
 そうなると、他の二人が加わるのも時間の問題だった。

「うわ、なんだあの量」ヴィータがはやてを指さして笑った。「あれ一人で食うのかよ」

「きっと薄めて調節してる内にああなったのね」シャマルが苦笑しながら言った。

「あれを笑うヴィータは、果たして料理ができたのだったろうか」

 シグナムがからかうと、ザフィーラが静かに首を振る。
 いくつもの鍋を占領するに至った味噌汁だけでなく、なぜかポットの前でしょんぼりしていたり、遠くから届いたらしい手紙を見て喜ぶ姿など、ヴォルケンリッターは様々な姿を見ることになる。その中には、不慮の事故で車椅子から転がり落ちて、元の体勢を取り戻すのに苦労する様子も含まれていた。

「あれ、どうにかしてあげられないかな」ヴィータは言う。「闇の書が完成するまであのままなんて、可哀想だ」

「しかし、私たちではどうしようもあるまい」

「シグナムには聞いてないっての」ヴィータは手を振って追い払う仕草をする。「ねえ、シャマル」

「だから、シャマルに負担をかけるような真似をするなと」

「シグナム、大丈夫だから」シグナムの言葉を遮り、シャマルが言う。「そうね、私もどうにかしてあげたい」

 そうしてシャマルによる調査が始まると、すぐに最悪の事実が明らかになった。
 はやての脚を縛り付けているのが闇の書であり、将来、命までもが脅かされる可能性である。
 悪しき未来を回避するために、更なる調査が進む。しかし、掘り起こされたのは、目的を果たすどころか妨害にしかならないような、醜悪な真実だった。

 闇の書の完成が、すなわち主の死。

 過去に何者かが闇の書のプログラムを改変した痕跡と共に、それが明かされてからは、シャマルは死にもの狂いで対策を考えた。他の騎士たちも、学べることを学び、考えるべきことを考えた。
 その結果が、守護騎士プログラムの改変による闇の書の自滅を目的とした計画であった。





 ヴォルケンリッターの計画は秘密裏に進められた。これは、はやてに対してだけではなく、闇の書の管制人格ならびにあらゆる監視の目に対してでもある。
 更に、それを隠れ蓑に計画を立てる者たちがいた。
 ヴォルケンリッターの内、ヴィータを除く三名である。
 誰の提案によって始まったのかは、彼ら自身、よくわかってはいなかった。なぜなら、闇の書を日記として消費させる計画を立てた直後、ヴィータが一足先にはやての様子を見に戻った瞬間に、その場に残った全員が察したからだ。自分と同じことを考えている、と。
 よって、話し合いは目的を確認する手間を省き、如何にして行うかに終始した。
 本来ならば守護騎士を構成する領域四人分を使用できるところを、三人分で賄わなければいけない。それだけでも大きな余裕が失われる。加えて、決してヴィータ本人に覚られてはならないという制約もあった。特に、如何にしてヴィータの機能だけを完全に保存するか、という問題が難しかったが、これに関しては、シグナムが説得を行った。

「我々の中で唯一代えが効かないのはシャマルだ。だが、間違えるな、我等が生かすべきは、主はやてだ。シャマルは戦闘には向かん。万が一、主はやてを守りながら戦わねばならない時が来たならば、お前が必要になる」
「戦闘するなら、別にシグナムでもいいんじゃねーの。それに、守るならザフィーラでもいいし、逃げるならシャマルでも」
「私では能力が偏りすぎている。それは、ザフィーラとシャマルも同じだ。お前は謂わば、我等ヴォルケンリッターの重心。ミッドチルダ式がベルカ式に勝り、これだけ世に広まった理由を忘れるな」
「だったら、最初から一対一を捨てればいいじゃんか。みんなで少しずつ身を削ってさ。人数が多くて悪いことなんてないだろ」
「烏合の衆が何の役にも立たないことは、それを数えきれぬほど蹴散らしてきた我々が一番よく知っているはずだろう」
「ぐ……」

 ヴィータはこのように論破されて悔しがったが、渋々ながらも受け入れた。
 シャマルが実体具現化を、シグナムとザフィーラが全ての魔法までも失ったとき、一人だけ十全な状態でいることに引け目を感じているようだったが、それは我慢して貰うことにした。はやてのため、という言葉が何にも勝る魔法だった。もちろん乱発は控えたが、便利だったことには違いない。

 壁は大きく高かった。しかし、そのどれもを乗り越えた。
 いままでとなにも変わらない。
 立ち塞がる不安や困難なんて、いつだって鋳つぶし鍛え、勇気と矜持に作り替えてきた。
 それは、最後まで同じだった。

 そして、最後の仕上げ。
 管制人格のように、夢を通じてはやてに接触し、元から脆くしておいた鎖をなんとなく引っ張らせた。同様に、全頁白紙の本をなんとなく日記として使わせた。
 賽は投げられた。あとは、消え去るときまではやてを眺め続けるはずだった。しかし、それはヴィータに話した偽りの計画。
 ヴィータを残すためには、しなければならないことがある。
 が、やった後に怒られることが決まっているので、誰もやりたくはなかった。

「……騎士らしく、ここはじゃんけんで決めるぞ」シグナムが握った拳を突き出す。

「ええ……、恨みっこなしで」シャマルがキリッと目を細める。

「騎士ではなく守護獣なのだが」ザフィーラは逃げ切れなかった。

 そして、見事に一発で敗れたシグナムが、その任を請け負った。

 達人が良い剣で斬れば、斬られた者がしばらくの間生き続けることは、実際にあります。
 数秒くらいですが。
 Signum






 もう、さかのぼるページはない。





 ヴィータが保有していた記録をサポートに、闇の書にわずかに残った記録をサルベージする作業は、ようやく終わった。そして、はやては全てを知った。
 声が出なかった。
 代わりに、涙が流れている。
 頬が熱く、視界は窓越しの夕焼けに赤くにじんでいる。
 静かな水面にも似た没入感は急速に引き上げ、いまや心は荒れ狂う嵐に翻弄されるかの如く、激しく波立っていた。
 あらゆる感情が混ざり合い、けれども統合されないまま暴れていた。
 声が出ない。
 声の出し方を、はやてはすっかりと忘れてしまっていた。
 泣きながら笑い、また彼女の一部分は怒ってもいた。他にも、様々な箇所で数多の感情が生まれ、好き勝手に振る舞っていた。
 それが収まるまで、はやては動くことなく座っていた。

「ああ……」固まっていた喉が、引きつったような声を上げる。それからはやては咳き込んだ。また涙がにじむ。

 闇の書との別れから今日まで、ヴィータが残ったのは不幸中の幸いだと思っていた。
 何が不幸中の幸いか。
 生まれたときから見守ってくれていた親にも等しい人たちが、苦しみに耐え、その命と引き換えに残してくれた、訪れるべくして訪れた幸いだったのだ。
 それを知らずに、今日まで生きてきた。
 歳を取り、幾度も読み返す内に気がついた日記の違和感の正体は、何と得難い愛であったことか。
 ヴィータは仲間たちに置いていかれたと気づいた瞬間に、全てを理解したのだろう。しかし、きっとあの頃のはやてでは、真実の重みに耐えられなかった。だから、今日まで黙って傍にいてくれた。
 そのヴィータは、サルベージには立ち会わなかった。はやてが、これは自分自身の仕事であると言ったからだ。その時のヴィータは静かに目を瞑り、「そっか」と一言、頷いた。全てを知った後のはやてには、一人でものを考える時間が必要だと思ったのかもしれない。それができるだけの心の強さを手に入れたのだと思ってくれたのかもしれない。
 だから、はやては落ち着いた心で、もう一度泣くことができた。
 今度は声を上げて泣いた。
 それからどれほどの時間、泣き続けたのか。窓の外は、すっかり日が暮れて暗くなっていた。
 昼前に出かけていったヴィータは、まだ帰ってこない。
 はやてはカーテンを閉め、時計を見る。
 今日は、二人で夕食を食べに出る予定だった。予約してある時刻まではまだあるが、移動の時間も考えなければならない。それに、少し二人で話をしたい。
 はやてはヴィータのデバイスに幾度か通信を試みた。しかし、応答がない。
 なにか、嫌な予感がした。





 ヴィータは舌打ちした。どうにも攻めあぐねていた。かといって、逃げられる状況でもない。この場で相手を潰すことが、ヴィータに課せられた使命だった。

「この……ッ!」

 張られた弾幕をシールドで弾き、デバイスで打ち、敵に接近しようと試みる。しかし、それは叶わない。相手は常に移動を続け、決して立ち止まることがない。逃げる猫と追う犬とでは、猫の方が選択肢が多い。猫は自由、犬は不自由。空戦ともなればそれは顕著で、ヴィータは飛んでくる射撃だけでなく、空間に設置された多数の罠にも気を払わなければならなかった。
 敵の実力は非常に高い。個人での戦闘に秀でたベルカの騎士相手に、それも古代ベルカの戦場を生き抜いたヴィータ相手に、一撃も許すことなく戦闘を続行しているのだ。しかも、それだけではなく、あの敵はデバイスを使用せずに精度の高い魔法を乱射している。これは驚愕に値する。

「この、バケモノめ」四方八方から発射される鋭い射撃を回避しながら、ヴィータは毒づいた。大きく身をひねる回避運動に乗せてデバイスを振るう。「これでも―――」遠心力を蓄えたハンマーヘッドが、鉄球を強かに打ち据えた。「喰らえッ!」

 空気を切り裂き飛翔する弾丸は四つ。そのどれもが別種の軌道を描き、半数が敵の視界を離脱、退路を断ちつつ奇襲を狙う。残った二つはそれぞれ違う速度で敵へと迫り、陽動と同時に敵の移動を制限する。更にヴィータ自身、誘導弾の制御を行いながらも一直線に敵へと猛進、敵正面の道を塞ぐ。当然のようにカートリッジはロード済み、見るからに凶悪なラケーテンフォルムが更に加速を促した。
 そのどれもが陽動でありながら本命だった。
 一つでも直撃すれば身体を打ち砕いて有り余る威力を秘めた恐るべき砲弾たちは、赤い尾を引きつつ敵へと肉薄する。
 敵は、全ての射撃を回避する代わりに、愚かにもヴィータと相対することを選んだらしい。猛然と迫るこちらへと進路を取る。それは愚かだが正しい選択だった。ヴィータを避けて射撃を受け止めれば、その一瞬の硬直を確実に突く用意があった。
 目が合う。
 ヴィータは獰猛に笑った。
 覚悟しろ、と。
 敵。
 女。
 双子の使い魔の片割れ。
 リーゼアリア。
 呼び方なんてどうでもいい。ただ、この振りかぶられた鉄槌の餌食となるためだけの存在だった。
 姉だか妹だか知らないが、先ほど叩き潰してやったあいつと同じ道を辿れ。
 鈍く輝く金属の柄がしなり、必殺の一撃を運ぶ。
 ここに来て、グラーフアイゼンが更に火を噴き威力を後押しする。誘導弾の制御を捨て、全力をつぎ込んだ結果である。
 敵は弾いて逸らすシールド系の防御を展開し、攻撃を受け流す体勢に入った。狙ったとおりの展開に、ヴィータの笑みは濃くなる。ラケーテンハンマーの尖った先端部は、一度相手を捉えたら楔のように食い込んで逃がさないための形状でもある。
 もらった。
 奥歯を強く食いしばり、刹那の後に来る衝撃に備える。
 その用意が、ヴィータを救った。
 まるで予期せぬ方向からの、凄まじい強撃。
 吹き飛ばされたと認識してから、遅れて痛みが駆け抜ける。騎士甲冑越しにも関わらずこの威力。平時に貰っていれば、間違いなく上半身と下半身が泣き別れする。避けられる奴がいても、耐えられる奴はいないだろう。
 その正体は、蹴りだった。
 頭が地に足が天に向いたその状態で、ヴィータは見た。
 倒したはずのリーゼロッテが、振り抜いた足をゆるりと戻すその様を。
 ちくしょう。
 倒したとき、ほんのわずかに軽かったのは、やはり気のせいではなかったか。それに、いま確信した。思わず食いついた隙は、作られたものだった。食いついた以上、徹底的に追撃をかけるべきだったのだ。しかし、それも後衛を担当していたリーゼアリアに妨げられた。あの猛烈な射撃の雨に背を晒してまで追撃をかける可能性と、仮に倒しきれなかったとしても、前衛が復帰するまでに後衛を落とす可能性とを秤にかけて、後者を取ったのだ。これも、相手が思ったとおりの展開だったのだろう。だとすれば、リーゼロッテはかなり早い段階で復帰して、息を潜めてタイミングを計っていたということになる。クソ猫め。
 心の中で呪いの言葉を吐きながら、ヴィータは意識を失った。

「ごめん、はやて」





「はやて……ッ!?」

 ヴィータが目を覚ますと、そこは医務室だった。視界の端でにょろにょろ動く尻尾が目に入って、それが目障りで、あまりに目障りなのでそちらを向くと、予想通りニヤニヤ笑うロッテがいた。思わず胸元のグラーフアイゼンに手が伸びるが、ヴィータはそこで大事なことを思い出す。

「い、いま何時! はやてから連絡は!」

 ロッテが告げた時刻は、ちょっと絶望的なものだった。
 ヴィータは真っ青になった。よりにもよって、今日この日の約束に、白いベッドの上でのんきに寝過ごしてしまうとは。

「まあ、ちゃんと事情説明しといたし」猫が言った。「お宅のちっこいのは油断した挙げ句に目を回して気絶してるので、お届けが遅れますがいかがいたしましょ? あー、こんな大事な日に寝こけてる子なんか知らへんので、ゆっくり寝かせといてあげてください。了解いたしました〜」

「うああああああ」ヴィータは頭を抱えた。

 まずい。これはまずいぞ。
 何を隠そう、今日ははやての誕生日。誕生日といえば、誕生日であって、つまり誕生日なのである。一年に一度しかない誕生日。八神はやての生まれた日。
 今日は家族二人で、目が飛び出るほどいい店に夕食を食べに行く予定だったのだ。そこで、たぶん、昔のことも話題に出るはずだった。闇の書が日記帳だった、あの幸せな時代の話が。
 それが、見事に台無しになった。
 下手に戦闘でやる気を出したせいだった。もっと適当にやって、適当に負けておけばよかった。

「まあ、そう言いなさんな。連中、それはもう震え上がって、驕り高ぶり全部まとめて木っ端微塵」ぎゅっと握った手を、花火みたいに勢いよく開くロッテ。「明日からは奴隷のようにあくせくと訓練に励むよ、あれは。効果は抜群だったし、次も頼んでいい?」可愛らしく小首を傾げるのが実に憎たらしい。

「うるせー黙れこのバカ猫」ヴィータは着替えながら文句を言う。

 実はあれ、某エリート部隊の新人教育の一環だった。訓練校を良い成績で出たばかりの、何も知らないまっさらな、けれども自信とやる気にだけは満ち溢れた可愛い可愛い坊やたちに、こんな犯罪者もいるかもしれませんからよく見ておいてね、今日のテーマは突撃型のいなし方です、と見学させていた。結果はロッテの言ったとおり。哀れな、しかしきっと長く生き残るであろう新人たち数ダースのできあがりである。
 着替え終わったヴィータは、急いで部屋を出ようとする。その背中に、声がかけられた。
 首だけで振り向くヴィータに向かって、なにかが飛んでくる。
 封筒だった。

「お父様から。二人で楽しんでらっしゃいな」ひらひら手を振るロッテ。もうこちらを向いていない。

 中身は船旅のチケットだった。





 ヴィータは格好いいところを見せようとして大失敗、目をグルグル回してベッドの上で寝ているらしい。ロッテからの報告で、はやてはそれはそれは心配した。しかし、何の異常もなく、至って健康、失神もやがて睡眠に切り替わり、いまはただ寝ているだけだというので、ならばしばらく寝かせておいてくれと頼んで通信を切った。
 それが、もう三時間前。
 嫌な予感はしっかり的中、予約の時刻はいまや過去。しっかりキャンセル済みだ。店の丁寧な対応に、電話越しだというのに思わず頭をペコペコ下げてしまった。
 しかし、ロッテから、代わりとお詫び、それに誕生日プレゼントとして豪華な船旅のチケットをヴィータに持たせると聞いて、はやては喜んだ。送り主がグレアムおじさんであったという点もいい。
 昔からお世話になっていたグレアムおじさんは、管理局の元お偉いさんの一人だった。職業は紳士ではなかったのだ。そのことを知ったのは、闇の書が停止してからしばらくのこと。ヴィータに頼み込んで、魔法について学び始めてからのことだった。
 魔法を学んだのは、専らヴォルケンリッターのためである。
 今日行った、記録のサルベージもその成果の一つ。
 八神はやてという命に溶け込んだみんなが、どのように生き、どのような経験をしたのか。それを知るために、ベルカにまつわる地を訪れもした。その過程で、聖王教会とも接触したし、闇の書事件で家族を失った人とも触れ合った。それを支援してくれたのが、グレアムおじさんだった。
 グレアムおじさんは、元はといえば、闇の書ごとはやてを凍結封印するつもりだったらしい。海鳴での生活を支援してくれていたのも、その一環なのだという。しかし、その前に、ヴォルケンリッターの計画が全てを終わらせ、結果、彼は何もしなかった。だというのに、彼は律儀にもそれについて謝った。はやてが逆に恐縮したぐらいで、もちろん全て許した。本当は、許すも許さないもなかったのだが、許した方が良い結果になりそうだったので、そうしただけの話。ちなみに、グレアムおじさんは、それと同時に管理局を辞職した。
 それからは、グレアムおじさんやその使い魔たちとの親しい付き合いが始まった。最初の頃、ヴィータやリーゼたちがピリピリしていたが、それもやがてなくなって、いまに至る。

「旅行、旅行、フ・ナ・タ・ビ〜」はやては自分の脚でステップを刻み、くるくる回る。回っている内に小指を角にぶつけ、しばらく涙目でうずくまり、反省して椅子に座った。

 白いテーブルの上には、古めかしい装丁の分厚い本があった。
 それは、はやての宝物である。
 闇の書。本来は夜天の魔導書という名前の、素晴らしい魔導書だったらしい。
 でも、いまは使い終わった日記帳。
 表紙をそっと撫でる。
 懐かしい手触りがした。
 ふと思い立って窓に近より、カーテンの隙間から外を見る。
 そこには吸い込まれそうな綺麗な夜空。
 星と月が浮かぶ夜天には、雲一つ存在しない。
 けれども、はやては知っている。
 雲は、ただ少しだけ姿を変えているだけなのだ。いつでも、すぐ傍にいる。
 はやてはカーテンを閉め、椅子に戻る。そして、日記帳を手に取った。
 ヴィータが帰ってくるまで、闇の書を読み返そう。

 古い日記帳を開くと、
 そこには、幼い少女が大切な家族に囲まれて幸せそうに笑う光景が広がっていた。



Ende.




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