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◆◇◆

 粗大ゴミそのものなカビ臭いベッドの上で目を覚ました。この廃屋にはカーテンなんて上等な濾過装置は存在しないので、強烈な朝日が直接降り注ぐ。どうやら今日は天気がいいらしい。
 窓から差す光の筋の中に、埃が乱れ舞うのをぼんやりと眺める。実際は部屋中にあの密度の埃が舞っているわけで、それを考えると息をするのが少し怖くなった。
 隣にはマラネロが、溶けた餅のようにぐったりと眠っている。彼女に寝顔を見られたことは、朝に限っていえば、たぶんまだない。子供は朝が早いのだ。そのあたりは肉体に依存するらしい。ラジオ体操だってしてしまえるほどに体が軽い。健康的でまことによろしい。
 マラネロを起こさないよう、そっとベッドを降りる。立てつけの悪いドアを開けるには、この細い腕では非力すぎた。なのでガムテープで修理に修理を重ねた死にかけの窓をこれまた静かに開けて、そこから飛び降りる。
 地上三階からのダイブは花火みたいに一瞬だった。
 王冠がサポートを入れたので、着地の衝撃はほとんどない。
「なんだ。起きてたのかおまえ。おはよう」
「……起きてなかったらどうするつもりだったんだよ? そもそも私は寝ないからな。これ、この前も言わなかった?」
「知らん」
 両方に対する答え。もちろん嘘だ。騎士甲冑という身の守りがあったし、知っていたに決まっている。
 改めて廃ビルの一階に入り直し、汲み置きの貴重な水を使って顔を洗い、口をゆすいでから、散歩に出た。
 雲ひとつない空は、ぞっとするほど冷やかな青に塗りたくられている。
 人ひとりいない道は、はっとするほど静やかな空気に埋めつくされている。
 ざ、ざ、と足音だけが響く中、誰も住んでいない町を無言で探索する。気分は実験材料、迷路課題に挑むマウス。トライ・アンド・エラーを繰り返し、空間を脳に取り込む作業に没頭する。
 楽しいから没頭するのではない。没頭するのが楽しいのだ。どんなに嫌な作業でも、始めれば苦にはならないのが、最近気づいた数少ない取り柄の一つだった。あるいは、人間が本質的に持つ性質なのかもしれない。
 まずは住居にしている廃ビルの周辺から。次に縄張り。最後に縄張りの外。徐々に行動できる範囲を広げていけ、とマラネロに指示されている。
 地図を覚えるだけなんて下の下もいいところ。目的地までの最短ルートを自然に選べるようになっても二流にすら届かない。目を瞑って街中を歩き回ればようやく二流だ。一流のストリートチルドレンは、建物の窓から下水道までもを利用して、街中での神出鬼没を可能にするものなのである、とかなんとか。
 その基準に照らし合わせれば、おれなどストリートチルドレンの中では一番の下っ端。言うならば雑魚。いや、それにも満たない、せいぜいがカスといったところだろう。
 廃墟を徘徊しているうちに本格的に日は昇り始め、おなかも減ってきたので、来た道とは違う経路で以て住居の廃ビルに戻る。そこには、迷ってもいざとなったら王冠という心強いサポートが存在するという打算があったのだが、本気で体に覚えこませるつもりなら命綱など不要なのかもしれない。今度からは王冠も物干し竿同様アジトに放置していこう。
 廃ビルに入る前から漂っていたいいにおいは、中に入るとますます魅力を増した。
「今朝もパンケーキモドキだね」
 王冠がつぶやく。自分が食べるわけではないのに声が弾んでいるのはなぜなのか。
「おまえ、デバイスのくせに嗅覚まであるのか」
「人間が備える感覚は標準装備してるよ」
「味覚は?」
「ある」
「口もないくせにどうやって使うんだ、そんな感覚」
 相変わらず謎の多いやつだ。
 部屋に戻ると、ガスコンロとフライパンが大活躍中だった。
「ん? ああ、おかえりコロナ。ほら、さっさと食べちゃいな」
 マラネロが差し出す縁の欠けた皿。バターやらメイプルシロップやらといった基本的なトッピングすらないパンケーキモドキだが、文句などあろうはずもない。味以上に量が欲しいお年頃なのである。
 ぱさぱさしたパンケーキモドキを咀嚼しながらマラネロを見ると、目が合った。妙に柔らかい眼差しは、はじめて見るものだった。
「よかったね、コロナ」
 なにが?
 問い返す前に、マラネロが続けた。
「親分の親分の親分あたりから声がかかったんだ。最近グループに入った魔導師をよこせって。戦力としての魔導師には年齢は関係ないって言ってたよ。実際、あんたの年齢は知らなかったみたいだし。……これでマトモな生活が送れるね」
 だから、よかったね、と。
 いくらかはもらったのかもしれないが、決して彼女らが売ったのではない。金だけでなく人的資源も吸い上げられるのだ。
 しかし、ますます管理局じみてきたというか……。生活の安定と引き換えに戦力として期待されるあたり、実のところ全く同じである気もする。
「今日のお昼にあんたの新しいボスのところに連れて行ってあげるから、それまでに準備をしておきな。っていっても持ち物なんてないみたいだし、着の身着のままってことかね」



 で。
 別れの挨拶もそこそこに、マラネロにくっついて新たなる親分さんの顔を拝みに行く途中、はぐれて迷子になった。街頭テレビに目を奪われた隙に、マラネロの背中が消えていたのだ。なんでも白昼堂々通り魔事件が発生したらしく、偶然通りかかった管理局の空戦魔導師と暴走自動車とのチェイシングがヘリコプター視点で生中継されており、ついそちらに集中してしまった。
 そういえば、JS事件前のレジアス中将の言葉によれば、その時点での地上の犯罪検挙率は最高でも65パーセントのようだったし、ミッドチルダは意外と危険な世界なのかもしれない。
 あたりを見回しても、背の高い大人たちが自分の目的のために闊歩する空間が広がっている。目的地は聞いていないし、マラネロの位置もわからない。どうするべきか少し考えて、中継を見続けることにした。
 首都クラナガンの中央区を俯瞰する映像。画面の右下には『白昼の凶行! 犯人は魔導師か!?』などと、衝撃を伝えたいのだと思われる凄まじい字体と色の文字が書かれている。
 そして画面中央に映し出される黒塗りの自動車と、それを追い、空を駆ける魔導師の姿。
『襲われたのはミラ建設株式会社の専務、ジーノ・ミラ氏。犯人は周囲の人間を巻き沿いに、自動車に乗っていたミラ氏を襲った後、その自動車を強奪、逃走して―――あ、いま新しい情報が入りました。ジーノ・ミラ氏は……運び込まれた病院で死亡、繰り返します、ミラ氏は運び込まれたクラナガン中央区の病院で死亡したとのことです。死因は公表されていませんが、目撃者の証言によれば、犯人は、ミラ氏を乗せて停まっていた車に近づき、いきなり砲撃魔法を放ち―――』
 自動車はかなり無茶な走行をしているようで、時おり対向車線にまで身を乗り出す。そして豊かな金髪と白いマントを風になびかせ黒い杖を持つ魔導師は……見なかったことにしよう。
 ミラ氏はもちろんのこと、犯人もご愁傷様だ。車体の後方にぴったりくっつくように飛行を続ける某空戦魔導師は、攻撃するつもりはないのだろう。犯人に投降を呼びかけているのか、それとも囲むための応援を待っているのか。どちらにせよ、犯人はものすごいプレッシャーを感じているのではなかろうか。少なくともおれは、犯人と同じ状況にあって冷静な思考ができるとは思えない。
 そんな風に犯人に同情……というよりはもっと生暖かい感情を向けていたその時。
 ぐわし、と。
 背後から頭を掴まれた。
「うひっ!?」
 変な叫び声を上げて、恥も外聞もなく飛び上がる。
 周囲から視線が向けられる。おれの頭を鷲掴みにした人物が、なんでもないですよー、と手を振ったので、集まった興味はすぐに散っていった。それでいいのかミッドチルダ人。
 頭から手が離れたので振り返ってみる。
 バカっぽい顔をした長身の――おれから見れば誰だって長身なのだが――男が立っていた。
 男はこちらの顔をじぃっと覗き込み、
「んー……高町ヴィヴィオ?」
 その名を聞くやいなや脱兎の如く駆け出すも、あっという間に再び頭を鷲掴みにされてしまう。
「違うよ、ぜんぜん違うよ」
「えー。でもその目の色はちょっと他にいないだろ?」
 言い訳してみるも、男が信じる素振りはない。ないのだが、おれとしてもここで引くわけにはいかなかった。なぜなら、高町ヴィヴィオの存在を知るこの男は管理局員の可能性が高い。それも、極めて本人に近い位置の。そんな人に偶然出会うなんて、どれだけ運がないのか。
 このままでは、下手をすると迷子か何かだと思われて――実際迷子なのだが――、一緒にママを探してあげようということになりかねない。そうなれば、あら不思議、昨日まで一人だったヴィヴィオちゃんが今日は二人、という事態になって、なし崩し的におれの出自が明らかになってしまう。ああいうトラブルの渦中にいることが多いというかアニメの主人公になっちゃうような人の近くには、いないに越したことはない。
「ま、いいや。それよりお兄さんとちょっとお茶でもどうだい?」
 問いつつ手を引き近くの喫茶店へと直行する強引さは見習いたいものがあった。友達少ないんだろうなあ、とか思いながらも、喫茶店からこぼれるいいにおいにつられてホイホイついていくおれは、たぶんあっさり誘拐されるタイプ。でもこの人はきっと大丈夫。ペドフィリア警報はまだ鳴っていないから。
 最近までは"目を見ればわかる"なんて表現は物語の中だけでのことだと思っていたが、実際わかるものである。グループ内にいたときも、それらしい視線を感じていなかったといえばウソになる。あんな視線を四六時中感じるのであれば、女性が専用車両を欲しがるのもわからなくはない。
「いらっしゃいませ。何名様で―――」
「二名様ですよ、っと」
 入口の店員を置いてけぼりに、奥の席へと向かう男。引きずられるおれ。
 少し薄暗く、アンティーク調の内装で統一された店内は、この世界に来てから初めて目にする上品さだった。もっともその上品さも、椅子にどかっと座るこの男にかかれば台無しなのだが。
「ほら、座れば?」
「…………」
 無言で向かいの席に座る。飴色をした正方形のテーブルに広げられるメニュー。
「値段は気にしなくてもいい。これでも一仕事終えたところなんで、懐は暖かくなる予定だから」
 誇らしげな職人の顔で男がいった。
「ふーん……、じゃあこれとこれと、これを」
「容赦ないな、おい」
 とか文句を言いつつも、自分も同じくらいたくさんの品をオーダーする男。喫茶店でのティータイムにこれだけお金を使って嫌な顔一つしないということは、本当になにか大きな仕事を終わらせたのかも。
 注文を繰り返した店員が去り、テーブルに静けさが戻ってきた。それを押しのけるように、男がぬぅっと上半身でテーブルに乗り上げて、顔をこちらの顔に近づけてくる。そして囁く。
「おまえクローン?」
 とりあえず飲んでいた水を噴き出しておいた。男は水も滴るいい男にクラスチェンジした。
「正解か。世知辛い世の中だなあ……」
「どうして……、何を知っている?」
「あ。おれは管理局員じゃないからそんなに心配しなくていい。え? 名前? 人に名を尋ねるときはまず自分から名乗るものだ」
 なんか勝手にしゃべり始めたぞ。
 王冠に思念通話の回線を開く。
《おい王冠。こいつが何なのか、おまえ知らないのか? それに、なんだ? この感覚。妙に威圧感があるというか》
《知るか。……でもよく気づいたね。こいつ、魔導師だ。魔力も多い。たぶん管理局でもエース張れるくらい。その感覚を忘れないようにした方がいいよ。いまのコロナじゃ何をやっても絶対に勝てない相手だ》
《絶対に勝てないって……逃げられもしないのに。どうしろっていうんだ?》
《諦めろってこと。出会ったときはできるだけ敵対せず、敵対したときは生き延びられたら奇跡って程度に考えた方がいい》
《なんだ、闘争大好きベルカ魂が今日はやけに弱気だな。景気づけにここで一発ブチ込んでみるか?》
《だからそんな風にふざけられる相手じゃないんだ。こいつが後先考えずにいきなり暴れ出したら、管理局が動き出すまでの短時間で、冗談抜きでこの区画が吹き飛ぶよ? まあ、おまえだけは聖王の鎧があるから助かるだろうけど》
《おいおい。なんで管理局はそんなやつを野放しにしてるんだ》
《そんなこと私にいうな。いいから相手してやれよ。ほら、不審そうにこっち見てる》
「どこかの誰かとナイショ話か?」
「あ、ああ、いや……、パフェ楽しみだなあ、と」
 男はにやにや笑っている。逆の立場なら、もし目の前にしどろもどろに言い訳をする幼女がいたのなら、おれだって同じように笑うだろう。
「えっと……? 名前の話だったか?」
 思わず素の口調で話しかけるおれに、男は平然と頷く。
「……コロナ。コロナだ」
「へえ……、なるほど。なるほど。いい名前だ」
 何がなるほどなのかすごく気になる。が、ここは敢えて口をつぐむ。
「で、あんたは?」
「おれ? おれはインテグラ・イイオトコ。強い妖戦士インテグラ、と呼んでくれ」
 ひどい名前だった。
《こいつラリってるのか?》
《いちいち私に話を振るな》
 エサを待つ犬のように、名を呼ばれるのをまだかまだかと待つインテグラ。ジャンボパフェを食べる前から胸焼けしそうな、嫌な方向に濃いキャラクターだ。しかし、ここは奢ってもらうという立場上、こちらが譲歩すべき場面なのだろう。
「えーと、強い妖戦士インテグラさん?」
「ぶほっ」
 吹き出しやがった。
 二度と呼ばないことに決めた。というか二度と会いたくない。どういうわけか、性格が気に入らないとかそういうレベルではなく、もっと根本的な部分で相容れない感触がある。いや、また奢ってもらえるなら考えないでもないが。
 こちらの不機嫌な目に気づいたインテグラが、笑う。
「いや、すまん。まさか本当に呼ぶとは思わなかった」
「うるさい黙れ」
 インテグラが肩をすくめると同時、注文の品が次々と届き始める。そして二人ともがベッタリ甘いデザートを食べ始め、テーブルはようやく静かになった。
 間に休憩をはさむことなく三十分ほど食べ続け、ついに完食。
「ああ美味かった。それじゃあおれは行くけど、おまえは? コロナ」
「さあ?」
 マラネロを探すか、それとも廃ビルまで戻るか。自分でも決めかねていたが故の返答だったが、何を勘違いしたのか、インテグラはニヒルに苦笑してから去って行った。
「また会えたらタッグ組むのも面白いかもな、美しい魔闘家コロナ」
 という頭の痛いセリフと、ついでに連絡先を書いた紙を残して。
 ……死ねばいいのに。


◆◇◆

 コロナがインテグラ・イイオトコと出会った時刻から数十分ほど時計の針を巻き戻す。
 フェイトとティアナの疲れ果てた二人は、それでも各所の協力を得て、件の研究施設から逃れた少女を探していた。名目は、違法研究施設の重要な情報を保有している可能性のある被害者の捜索だ。半分以上が私情によるものではあったが、幸いにして被害者の保護に関しては、管理局は力を入れる傾向にある。それがまだ幼い子供であればなおさらで、フェイトが協力を取り付けた捜査官たちは、皆一様に力強い言葉と共に頷いたものだった。
 二人があの施設に突入した日から、既に二週間以上が経過している。少女が施設を脱出してからは、さらに長い時間が流れていた。映像の中の少女はヴィヴィオと同年代だったので、五歳か六歳かといったところだ。
 ヴィヴィオと同じ目的で生まれたのなら、同年代の他の子供より多少は高い知能を持っているのだろうが、それでも高が知れる。そもそもフェイトには、頼れる人のいないヴィヴィオが一人でこの広いクラナガンに放り出されて生き延びるという光景が、まったく想像できなかった。
 いまこの瞬間にも、誰に助けられることもなく道に倒れ伏しているかもしれない。そう思うと、居ても立ってもいられなくなる。
 焦ってもいいことなどないどころか、それで体を壊せば結果的にマイナスとなることぐらい、嫌になるほど理解していた。それでも今は寝る時間が、一分一秒が惜しい。一人の人間としてのフェイト・T・ハラオウンの前には、長年積み重ねてきた執務官としての経験など何の役にも立たなかった。
 ヴィヴィオがジェイル・スカリエッティに連れ去られたときと同じ心境だ。唯一違うのは、今度は手を伸ばせば届くところにいるかもしれないという点。その一点が、フェイトに無茶をさせる要因であった。
 今日はティアナとは別行動なので、自分でハンドルを握っている。疲労が原因で交通事故を起こしては元も子もないので、擦り切れかけた神経を傾けて、周囲への注意は怠らない。
 それでも、やはりいつもの調子とまではいかなかったのだろう。
 街中で、停車信号につかまり停止する。前の車との距離はきちんと確保。ふと周囲を視線で薙げば、一台前の車両に近づく人影があった。
 男だ。
 彼がフェイトの目を引いたのは、着用していた服による。フェイトのものと同じ、黒い制服。年齢は二十代の半ばごろ。その顔に見覚えがあるが、名前が思い出せなかった。恐らく執務官としての仕事中に知り合ったのだろうが、さて、どこでのことだったか。
 頭の奥の方に格納されているファイルを探り当て、アクセスする。この行為が、普段は楽しい。けれども疲れた頭脳はなかなか思い通りの結果をはじき出すことができず、苛立ちばかりが募っていく。
 そのような思考と並行して、彼は何かの捜査の最中なのだろうか、とも推測する。ならば自分も手を貸すべきか、とも。
 フェイトの視線の先で、執務官の男は乗用車の運転席――左ハンドルだ――の窓をノックした。
 その制服が管理局執務官のものであると理解する人間であれば絶対に無視はできないし、管理局の人間であると理解できるだけでも無視する人はほとんどいない。運転手は当然のように窓を開き、
「え―――」
 その声が自分の口から出たことに、フェイトは気付かなかった。いや、そもそも聞こえなかった。
 ドン、と体を叩きつける音……弾性波、いや、振動というよりは過激な圧力。加えて閃光じみた赤い魔力光が目を直撃する。
 執務官の制服を着た男が、いきなり杖型のデバイスを構えて砲撃魔法を撃ち放ったのだ。
 砲撃は運転席と助手席を貫いて、助手席側の窓ガラスから一直線に飛び出ていった。そのまま対向車線を走行する自動車を直撃し、爆破。一瞬の出来事だった。
 しかし男はそれだけでは止まらず、先の砲撃で消し飛ばされた窓から車内に手を伸ばし、ドアのロックを解除。ドアを開き、首から上の無くなった運転手の死体を引きずり出し、路上に投げ捨てる。そして自身の体を運転席に滑り込ませた。が、ハンドルは握らず、後ろを向き、後部座席に座っていた人間に同じく赤の極光を放った。
 フェイトが反応したのは、このときだった。
「バルディッシュ!」
 窓を突き破り、そのまま後方の自動車をまとめて何台も焼き払おうとした砲撃を、黄金の防壁が受け止める。
 魔力の奔流の中、確かに男と目が合った。
 信号が、切り替わった。



 状況を説明し、応援を要請しつつ、フェイトは被害者の救出活動に入った。もっとも、救出された被害者は一人もいなかったのだが。
 現場に残されただけで死者は四名。全員即死だった。首のない運転手の遺体と、三人が乗っていたもはや原形をとどめない乗用車とにそれぞれバリアを張って、現場を保存する。
 地上の部隊からの応答はすぐに来た。
 ―――犯人を追ってくれ。
 犯人の男は、信号が青になると同時にアクセルを踏み、まだ遺体を二人分乗せたままの自動車で逃走していた。つい一分ほど前の出来事である。飛行許可は下りているので、すぐに追いつける。
 フェイトは地を蹴り空に舞い上がった。紅の瞳は鷹のそれだ。十年以上の時を共にしたデバイスの助けもあり、ほんの数秒で獲物を発見、追跡に入る。
 逃走を続ける黒い高級車のほぼ真上を位置取り、滑空から急降下に切り替えた。重力に飛行魔法を重ね積み、その加速は次元世界の人々に忌み嫌われる質量兵器のそれに近い。あるいは黄金の尾を引く極大の流星か。
 けれども目的は犯人の剪滅ではない。こちらから無闇に攻撃を仕掛けるわけには―――
「―――ッ!?」
 どのようにしたのか、運転席のドアを外し道路に放り投げ、男はハンドルを握ったまま半身を外に。"当てる"ではなく"当たれ"とばかりに乱射する射撃魔法。青い空に赤い軌跡が幾筋も描かれる。それはまるで地から天に向けて降る赤い雨。
 しかし高速の近接戦闘を得意とする金の閃光を墜とすには不足が過ぎる。針の穴を通すような回避を数十と繰り返し、フェイトは無傷で弾幕を突破した。そして念話で投降を促すメッセージを送る。返事はない。再び赤い流星群が放たれる。
 同じことを数度繰り返し、犯人はフェイトに攻撃の意思がないことをようやく確信したのか、攻撃の手を止めた。
 民間の報道ヘリも飛び始めた。あとは時間の問題だ。地上の局員が囲むまで、ひたすら張り付き決して逃がさないのが自分の仕事。どうやら運転席の犯人も、落とし所を探っているような気配がある。投降は早ければ早いほどいいのだが、この手の犯罪者にはそういう理屈が通用しないことも少なくない。
 追跡を開始してから二十分。ようやく航空隊員たちが駆け付けてきた。人数は、ちょっと数えるのも億劫になるほど多い。犯人の魔導師ランクが高いことが原因の一つだろう。
 そうして遂に暴走していた自動車が停まる。
 同時に犯人の姿は空気に溶けるように消え去った。
「な―――に?」
 呆然とする空隊の面々。それはフェイトにしても同じだった。
 後に発見される、シートに残されたメモ用紙。
 "残念! 無念! あっぱれじゃ! インテグラ・イイオトコ"
 それを見て、フェイトはやっと男の正体を思い出す。
 三年ほど前に管理局から無断で離脱して以降、殺人を含む複数の犯罪の容疑で、数々の世界で指名手配されている凶悪犯インテグラ・イイオトコのミッドチルダ再来だった。
 フェイト・T・ハラオウン執務官がぐっすり眠れる日はまだまだ遠い。


◆◇◆

 マラネロとはぐれ、インテグラ・ヘンナオトコに色々と奢ってもらった後、どうにか日が沈む前にマラネロと合流できた。そこで散々叱られて――マラネロも怖い人に散々叱られたらしい――から、本来の目的地に向かう。
 引き渡しは、意外や意外、人通りの少ない裏道ではなく普通に町中で行われた。
 こういう別れは多いのか、マラネロは彼女らしいさらりとした言葉で送り出してくれた。それにちょっとだけ感動するも、初めて乗った高級車のフワフワなシートに負けて、たちまち忘れる恩知らずな生き物がここに一人。そんなおれを、新しい親分がこいつ本当に大丈夫なのかよ、という顔で見ているのがかなり怖い。
 新しい親分が言うには、彼は組織の中でも特に武力関係を取り仕切っているらしい。その一環で魔導師を集めているそうだ。組織における魔導師の運用は主に護衛目的だというが、本当のところはどうなのかも実に怪しいところだ。カチコミと書いて護衛と読む、とかあんまり洒落にならないことを想像してしまう。
 ……まあ、幼女にもわかりやすい言葉でわざわざ説明してくれるあたり、強面のおっさんだけど好感度は高い。あるいは奥さんや幼い子供がいるのかも。
「まあ、嬢ちゃんはしばらくは基礎訓練だろうな……。久しぶりに帰ってきたバカタレがいるから、そいつに面倒見てもらえ。なに、頭は悪いが性格はそれほど悪くない」
「はい」
 なんかもうこの時点で嫌な予感ビンビンだったのだが、それが何に起因するのかはわからなかった。
 やがて車は背の高いビルに到着する。このビルを丸々占領する企業が、組織の隠れ蓑だそうだ。急に場違いなところに連れてこられた気がするが、組織の人員は表向きは社員として扱われるんだとか。さすがに五歳、六歳の子供を雇うのはアウトっぽい気がしないでもないが、そのあたりは見ないフリをするのが賢い生き方だ、とさっそく親分に教わった。
 社員専用の入り口からビルに入り、親分のでっかい背中を追いかける。そしてエレベーターに乗り、どんどん上へと昇っていく。途中で一度乗り換えて、再び上へ。
 チン、と安っぽい音がして、ようやく目的の階にたどりついた。
 それからまた歩き、角を数回曲がったところで重たそうな木の扉が現れた。その前には、彼らが護衛なのだろう、杖型のデバイスを抱えた二人の男が立っている。黒いスーツを着た大人が魔法の杖を持つ姿がシュール。
 護衛二人は親分に頭を下げる。親分は偉そうに片手を軽く上げるだけで通り過ぎるので、代わりにおれが頭を下げておく。
 そして室内に入ると、
「あれ? なに、新しい魔導師ってコロナだったのか?」
「なんだ? おまえたち、知り合いだったのか?」
「知りあいというか、テーブルはさんでパフェ食った仲というか……」
 そこで待ち構えていたのは、何を隠そう、インテグラ・イイオトコであった。



モドル