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◆◇◆

 広域指名手配犯ジェイル・スカリエッティによる一連の事件は終結を見たが、幹が唐突に朽ちたところで枝葉はしばらく生き残る。幹の健在期間中にまかれた種の存在も、誰にも否定できはしない。それらをしらみつぶしに探し、文字通り潰すのが仕事の捜査官たちにとっての本当に忙しい日々は、スカリエッティが逮捕されてからのことだった。
 スカリエッティは捜査に非協力的な姿勢を崩そうとしないが、それが必要ないほどに、撃てば当たる状態だったのだ。それらしいところを調査すれば十中八九違法研究が行われた、あるいは現在進行形で行われている研究施設にたどりつくという現状は、今日までにどれほどの悪が見逃されてきたのかを否応なく物語り、見せつけ、管理局の捜査官たちを大いに唸らせた。
 以前からスカリエッティを追っていたため、他の捜査官たちよりもある程度の覚悟ができていたフェイト・T・ハラオウン執務官にしても、それは同様だった。彼女の出生には違法研究であるプロジェクトFが関わっている、否、そのものであるといっていいため、倫理を踏みにじり人命を材料に発展するその手の研究への思いは複雑なものがある。しかし態度は一貫し否定的だ。生まれた命に罪はなくとも、命が生まれるまでの犠牲を積極的に容認する研究は、憎しみの対象に十分なる。人として正常な感覚だった。
 機動六課が解散し、本局次元航行部隊に復帰してからというもの、フェイトの仕事は山のように積み上がり、その重量によるものだろうか、時間は圧縮されたかの如く短く感じられ、瞬く間に過ぎていく。
 一匹見たら十匹いると思え。捜査の結果、今ではそう言われるほど、調査すべき違法研究施設が多々発見されている。この日も、幾百幾千の内の一つと思わしき施設への突入ならびに確保を目的に、執務官補佐であるティアナ・ランスターを伴って現場へ向かっていた。
 愛車の助手席から窓ガラス越しに見上げた曇天は、腐った獣の亡骸みたいに濁っている。そのように感じられるのは、心が疲れているからだろうか。連日の勤務は身体に疲労を刻むが、精神の消耗と比べれば大したものではなかった。
 犯罪の捜査は、矢面に立って人間の悪意に接する仕事だ。それは刃で以て切り結ぶのによく似ている。人の善性を信じたがる心を守るために用意した防壁は、けれども鋼鉄のように重くて、維持するだけで多大なエネルギーを消費してしまうのだ。傷ついた表面をどうにか取り繕うのにだって、少なくない労力が必要となる。
「フェイトさん?」
 運転席でハンドルを握るティアナが、視線を前方に向けたまま尋ねた。
 わずかに反応が遅れ、フェイトは返事をする。
「……うん? どうしたの? ティアナ」
「いえ。お疲れのようでしたので」
 そう言うティアナは、最近になってフェイトの下に就いた補佐官だった。もし彼女がいなかったらと思うとぞっとする。要するに、それだけの激務をこなしているのが現状だった。今日も、睡眠不足の重たい頭で各所に渡りをつけ、各所から入ってくる気が遠くなるような量の捜査資料に目を通すだけで、午前が終わってしまっていた。しかしそれはティアナにしても同じこと。執務官を目指す彼女にとっての良き先達であるためには、自分だけが疲れているなどと思いあがるわけにはいかない。
「どこかで少し休憩していきますか?」
 今度はちらりと視線をよこした運転手に、首を振ってみせる。
「大丈夫。それに今回はいつもに増して早さが命だから、急がないと。でも、これが終わったら少し休もうか」
「わかりました。でしたら今だけは全力全開で頑張って、後でたっぷり休みましょう」
 二人ともが望んで無茶をすることで生まれた共犯者めいた了解が何やらおかしくて、口の端に笑みが浮かんだ。
 空を見上げる。
 停滞していた雲がいつの間にか流れ去り、ほんの小さな切れ間から陽光が差していた。陰影は先ほどとは全く違う模様を描いている。
 もう少しだけ頑張れそうだ。
 交通量の少ない道を、黒いスポーツカーが唸りをあげて疾走する。



 違法な施設というものは、研究所に限らず地下にあることが少なくない。主な理由は、存在の隠匿がしやすいからだ。地上に建造物がないだけで、発見の難度は大幅に上昇する。入口の偽装をされると、発見はさらに遅れることとなる。
 違法行為を自覚しているからこそ施設の隠匿に努めるのだろうが、なぜ違法だと理解しながら違法行為を行うのか。その理由の一つの可能性について、フェイトは自身の過去に心当たりがあったものの、まっとうな人生を送ることを許された結果、今では犯罪者たちの思考は辛うじて理解できても共感はできない域にあるものとなっていた。それに、フェイトが捜査を手がける種類の犯罪についていえば、自ら好んで罪を犯す者が圧倒的に多い。代表的なのは、やはりジェイル・スカリエッティだ。
 逮捕された彼は、逮捕前にあれほどよく喋った口をつぐみ捜査に非協力的な姿勢を貫いている。しかし管理局の中枢とどのようなつながりがあったかは、既に明らかとなりつつあった。今回の施設に目を付けたのも、実は管理局の内側からのびた細い糸を辿った結果である。
 最初はまさかと思ったが、実際に見てみれば間違いない。多くが人の存在しない世界に設けられる研究所が、今回は、次元世界の軸ともいえるミッドチルダの、さらにその軸たる首都クラナガン――つまり管理局のミッドチルダ地上本部――の目と鼻の先に存在していたのだ。
 打ち捨てられた廃墟の森を形作るビルの一つに踏み込んだ時点で、この建物が最近まで利用されていたことが知れた。厚く積もった砂や埃に足跡が残っていたなどという迂闊すぎるものではないが、それと似たりよったりで、足跡が残る砂や埃がそもそも存在しないという確たる証拠があったからだ。
 そうであるとの確信のもとに調べれば、地下へと下る階段が隠されていることにも、二人はすぐに気がついた。
 薄汚れた床に、置いていたものを最近どかしたかのように、綺麗な正方形。一メートル四方ほどのそれは、よく見ると床に入った切れ込みが四辺になっている。他の施設と比べて偽装が甘いのは、そもそもこの場所であるということが隠れ蓑になっているからか。それとも、廃棄済みなので最低限で済ませたのか。だとすれば、大した残留品はないだろうが、果たして……。
 ティアナが周囲を警戒している間に、フェイトが床の隠し扉を開き、予想通りに階段が姿を現した。
 暗い穴は、まるで獲物を丸呑みする蛇の口。悪意が舌のようにちろりちろりと見え隠れする錯覚。
 バリアジャケットを展開し、魔導師としてランクの高いフェイトが先に立ち、慎重に階段を下っていく。せまく細長い空間に二人分の足音が反響する。
 体感にして数階分下ったころ、ついに奥へと続く扉に突き当たった。開くための鍵は、設置されている装置から見て網膜と指紋による認証のようだが、電気が通っていないため、機能していないらしかった。取っ手などはなく、手動で開くようにはなっていないようである。
 振り返り、ティアナと顔を合わせ、頷きあう。
 再び扉に向きなおり、
「バルディッシュ」
『Sir』
 黒い杖を扉に押し当て、
『Break Impulse』
 扉が持つ固有振動数に合わせた振動エネルギーを送り込み、一瞬の間を置き―――粉砕。間髪入れず室内に身を滑り込ませ、バルディッシュを構えて警戒しつつ人の気配を探す。
 少し遅れて、後方にもいくらか意識を割いたままのティアナも室内に足を踏み入れる。
「廃棄済み、ですか」
 ティアナが呟いたとおり、人の気配はなく、場には機能停止した施設特有の伽藍とした気配が漂っていた。照明も機能しておらず、適当な魔法で照らされた部屋の隅には暗闇が澱んでいる。
「五分五分だったとはいえ、間に合うかもしれないと思っただけに、残念ですね……」
「……うん。そうだね」
 最高評議会が倒れても、その周囲から外へと伸びたラインには生きたままのものがあった。今回、その一つを追った果てにたどり着いた場所なだけに、施設を稼働させていた人間の確保も期待されたのだ。が、現実はこれだ。恐らく、ろくな資料も残っていないだろう。
「とりあえず、中央の制御室を目指そうか。十分くらいで終わると思うから、周囲の警戒、頼めるかな」
「了解です」
 十分。突入と同時に放った数十のサーチャーで施設内の経路を調べるのにかかる時間だ。きっかりそれだけの時間をかけて経路を割り出してから、やはりフェイトの先導で暗い道を進み、中央制御室へと向かう。
 途中の通路は綺麗なもので、この施設がつい最近まで稼働していたのだと確信するに十分なものだった。
 施設の入り口と同じ要領で扉を砕き、ひときわ広い管制室に入る。そして、二人でそれぞれ時計回りと反時計回りに室内を検めた結果、
「電気は通ってるみたいだね。システムが落ちているだけ。見た限り、設備が物理的に破壊されているということもないみたいだし……」
「ってことは、何か残ってるかもしれませんね」
 慌てて逃げだしたということ。
 データの削除はされているだろうが、それが完璧かどうかはわからない。電子的に残っていなくとも、施設内をつぶさに調べれば、研究員の個人的な持ち物が見つかる可能性も低くない。しかし、その捜査は今ここで、たった二人で行うべきことではない。
 今すべきは、
「まずは、応援の要請、……私がしましょうか?」
 その言葉を聞き、頼もしくなってきたなあ、と考えながらフェイトはうなずく。
「じゃあ、お願いしてもいいかな」
「はい。任せてください」



「これは―――」「……ヴィヴィオ?」
 フェイトとティアナが同時に声を上げ、目を見開いた。二人の視線が向く先は、四分割されたモニタ。先日踏み込んだ施設から回収された唯一の映像データだった。音声データはない。
 映像の視点、すなわちカメラの位置は、部屋の天井四隅だと思われる。
 モニタの中には、皮肉にもこの種の犯罪の撲滅を目指す捜査官ほど見慣れずにはいられない生体ポッドが、樹木のように乱立している。執務官とその補佐の二人が声を上げたのは、そのポッドに満ちた液体の中で眠るように目を閉じた少女の姿を目にしたからに他ならない。
 現在の名を高町ヴィヴィオという少女は、フェイトの親友にしてティアナの恩師にあたる高町なのはという女性の義娘である。
 ヴィヴィオはフェイトと同じく、動物として自然な生まれ方をしなかった人間だ。その誕生には、クローン技術が大きくかかわっている。フェイトがアリシアという少女のクローンであるように、ヴィヴィオは約三百年前に生きたとされる古代ベルカ王族のクローンなのだ。ヴィヴィオの元となった人物の遺伝子は、十年ほど昔、聖王教会から聖遺物が盗み出された折に世界中へばらまかれてしまったことがわかっているので、ヴィヴィオの『姉妹』となる存在がいないとは決して断言できなかったが、こうしてそれらしいものを直視させられると、フェイトは胸を締め付けるような苦しさに襲われる。
 二人の驚きをよそに、時間は流れ続ける。数分経っても画面に変化は起きず、ゆらゆらとたゆたう少女の髪だけが、これが静止画ではないことを訴えていた。
 動画を早送りし、画面に白衣の男が現れたところで少しだけ巻き戻す。
 再生を始める。
 正常な速度に戻った画面内に、再び白衣の男が現れた。その手には、
「杖と……冠?」
 剣十字があしらわれた杖と、小さな冠に見える。
 男はそれを近くの机に置いてから、何か手元で数秒作業をしたようだった。その目的は、すぐにわかった。男の正面に立った生体ポッドが緩やかに倒れていき、ついに完璧に横倒しとなったのだ。
 ポッドの内側に満ちていた液体が引いていき、上面の透明部分が開く。見た目、簡易なベッドの完成だった。その上に、ヴィヴィオそっくりの少女が身動きなく横たわっている。
 少女が目を開いたのは、男が白衣の内側から取り出した手錠――管理局でも使われる、魔法を封じるものだろうか――を少女につけたすぐ後のことだ。翡翠の右目と紅玉の左目は、離れた位置にあるカメラの視点からでもわかる。
 映像を最後まで見終わったときには、二人とも最悪の気分で、剃刀のように鋭い眼になっていた。


◆◇◆

 目が覚めたら素っ裸になっていた。というか、素っ裸の体に毛布の一枚もかかっておらず、しかも背中に当たる感触が妙に硬くて冷たくて、そのせいで目が覚めた。
 ちなみに、おれには裸で寝るような習慣はないし、裸で居眠りするほど迂闊でもない。ではいったい何事なのか、と考える前に、体が髪が濡れていることに気がついた。肌寒いのは、濡れたままで寝てしまったからなのだろう。
 風呂を上がって体をふく前に倒れでもしたのか。寝起きのぼんやりした頭で考える。そのような推論が働くくせに、体を動かそうなどとはこれっぽっちも思わないのは、全身に巨大なアメーバみたいな気だるさが圧し掛かっているからだった。
 寒いのは不快だが、それ以上に目を覚ますのが不快。トイレに行きたいけど起き上がりたくなくて、結果いつまでたっても眠りにつけない状況とよく似ている。
 どちらに転んでも嫌な思いをする選択肢。そんなもの、世の中にはありふれているわけだが、しかしそれを素直に割り切るための理性は夢と現のはざまに漂ってお留守なので、正常な判断なんざできやしない。よって、眠りに落ちかけ、目覚めかけ、転んでは起き上がるダルマみたいな時間が延々と続くかと思われた。
 しかし均衡を遮る声。
 この状況に欠けていた決定的なひと押しとなって、声が目覚めの側へと意識を突き飛ばした。
 目を開く。
「…………」
 なんか変なおっさんと目が合った……ような気がした。
 拓けたばかりの薄暗い視界はぼやけていたので、確信はない。けれどもモザイクのかかったその人物は、体格や雰囲気がおっさんぽくて、そしてこちらの顔を見ているっぽかった。あと"変な"の部分はおれの創作だった。
 詳しい事情はわからないが、とりあえず自分が全裸で人前にいることはわかる。文明人としては断じて許容しがたいシチュエーションなので、おれは当然のようにおっさんの視界から逃れるために、まず上半身を持ち上げようとして、
「……ッ!?」
 ゴン、と良い音を立てて後頭部を固いベッドに叩きつけたのだった。
 上半身を起こす補助に両肘をつこうとし、しかし腕にはまった手錠のせいで両手首が胸の上に押し付けられ、勢いつけて持ち上げた身体が押し返された。ついでに頭もぶつけた。言語に直せばそうなるが、実際のところ、驚きやら衝撃やら予想しえない視界の動きやらで、何が起きたか全く認識できていなかった。ただ動物的な本能で、体が物理的に拘束されていることだけは理解でき、また力づくで抜け出そうとはしたと思う。もっとも人間の腕力で壊れる手錠なんて使用済みのティッシュ以上に役立たずなものが存在するはずもないのだが。
「……ていうか手錠ってなんだよ」
「おお、目が覚めたのかね!」
 おっさんが言う。目が合った時点で気付いてほしかった。
 会話をするために、今度はゆっくり慎重に上半身を持ち上げて、目をこする。視界はようやくクリアになり、おっさんの顔――おっさんはやっぱりおっさんだった――を見ることができた。
「あの。……えーと」
 どういう質問をぶつけるのがいいのか。自分は何を知りたいのか。声をかけてから考え始め、終着駅につく前におっさんが言った。
「見事なものだ。御身、聖なるかな!」
 声は弾んでいる。思ったことを口にしたというよりは、戯れにカッコよさ気なセリフを口にしてみた感じ。今にも「ヤー!」とか叫びだしそうで嫌だ。
「まず、これ、どうにかできませんかね?」
 手錠のついた両腕を前に差し出しつつ、体は後退。実際に接したことはないが、これが既知外というやつかもしれないと思い至り身の危険を感じたせいだ。
 案の定というべきか、おっさんはおれの言葉を無視してこちらに背中を向けた。その間に後ずさり、おっさんとの間にベッドを挟む位置に降りる。それからなんとなく白衣についたシワを目で追っていると、おっさんが再びこちらを向く。
「聖王の笏を受けよ。聖王の権力と正義の印を」
 やけに装飾された十字がついた杖を渡されたので、受け取ってみる。受け取ってから両手が塞がったことに気づく。
「そして、……これを」
 ベッドを迂回し、おっさんが近付いてきた。負けじとベッドを中心に円を描くように後退するも、すぐに追いつかれる。そして、これまた装飾過多な冠を頭に乗せられた。
 ここで、はたと気付く。おれとおっさんの身長差が大きすぎる。そして見た限りでは、おっさんは長身に過ぎるというわけではない。ならばと対比するように自分の体を見下ろして、
「――――ちょっ、っと待て。おい。ないぞ」
 ナニがないのかはあえて言わない方針で。
 目に映る自分の体は、全体的に白くてぷにぷに、つるぺったん。
 ……そうか、幼女が自分の体を見下ろすとこんな風に見えるのか。
 あまりにもあんまりな現実に、白昼夢めいた浮遊感を得た。と思ったら、実際に体が浮いていた。
 脇の下に差し入れられた両手で持ち上げられ、気色悪い体温に自然と体が震えるうちに、再びベッドの上の住民にされてしまう。そしておっさんもベッドの上の住民になっていた。しかもハァハァと息が荒い。
 これはあれだ、ペドとかいう病人。全裸の幼女に杖と王冠装着させて欲情するとか、どんだけレベル高いのか。いやでも、自分の体ながら、こんなぷにぷに柔らかくて気持ちよさそうなものを自分だけのものにできるのなら、ペドフィリアの気持ちも―――やっぱりわからないな。
 四肢をついて覆いかぶさるおっさんは、さながら鳥かごだった。
 抵抗しようにもこの体は非力すぎて、そのうえ手錠という文字通りの縛りまであってはどうにもならない。が、性犯罪の被害者に女性としてなるつもりは少しもないので、じたばた暴れてみる。
「ってうわ、触るなバカ! いや! うそ! ごめん! バカじゃないからほんとやめてギャー!」
 体をムカデみたいに這いまわる手、と表現するとムカデに申し訳なくなるぐらいに気持ち悪かった。ペド野郎が「ふふふ魔法は使えないよ」とか言った気がしたが、やっぱり気のせいかもしれない。白熱した思考に任せ、力いっぱい手を突き出し足を蹴り出し抵抗する。第三者が見れば診療台に患者を押さえつける小児科医に見えるかもしれないが、子供はいつだって注射が怖いものだ。
 自分の口から飛び出る耳をつんざく叫び声はいつの間にか意味ある形を失い、獣めいた絶叫に変わっていた。腹の底から叫ぶという行為が動物としての本能に火を入れる。
 視界が激しく点滅する。脳が激しい閃光に晒される。
 野生に圧迫されて退行しつつあった理性が、
「素手がだめなら、武器で殴ればいいじゃない」
 という助言だか悪魔の囁きだかわからない言葉をすんなりと受け入れ、いつの間にか手放していた杖を再び手元に手繰り寄せ、手足の代わりに無茶苦茶に振り回していた。それが運よくいい所に当たったらしい。下半身丸出しの下品な性犯罪者はベッドから転げ落ち、頭から血を流して倒れこむ。そしてピクリとも動かなくなった。
 一方おれはといえば、それを見て罪悪感に駆られるどころか更なる追い打ちをかけたい気分だったのだが、
「もう死んでるよ。ひき肉作りたいのなら止めないけど」
「……誰だ?」
 気が立っているだけあって、息も口調も荒い。しかし話しかけてくる正体不明の声の主はそれが気にならないようで、特に声色に変化もなく言葉をつづけた。
「人に名を尋ねるときは、まず自分が名乗るべし、とかなんとか」
「おれは……………………あれ?」
 思い出せない。
 日本で男として生を受け、小中高校と進学し、現在文学部に所属する大学生。家族構成は両親と妹一人で、友人はあまり多い方ではない。
 ……ここまで思い出せて、どうして自分の名前が出てこないのか。
「ちなみにおまえの名前はコロナっていうんだけど」
 声が言った。
 コロナ。
 いや、違うな。ぜんぜん違う。
「おれは日本人だから。そんな変な名前じゃないはずだ。ていうか知ってるのかよ」
「うん、そうじゃなくて、その体の名前っていえばいいのかな? まあ、普通は心と体は対になってるからわざわざ別物としては考えないんだけど、おまえの場合はちょっと違うよね。まず体があって、後づけの心があるみたいだ」
 つまり自意識のない体に乗り移ったみたいなものか……などと納得できるはずもない。
 脳移植でSFなのか、魂が移し替えられてオカルトなのか知らないが、どちらにしてもファンタジー。ファンタジーは現実ではないからファンタジーなのだ。
「いや待て。流されるところだった。―――もともとおれの状態の話じゃないだろ。まずは答えろ、おまえは誰だ?」
「デバイスってわかる? ああ、そうだ、そうじゃない。まずはおまえ、自分の顔を見るといい。ほら、そこのガラスにうつるから」
 のらりくらりとはぐらかされる。問い詰めるのも疲れそうなので、エネルギーを節約するため素直に従い、円柱状のSFじみた装置の表面、曲面のガラスをのぞきこむ。そこには不細工に歪んだ顔。
 翡翠の右目と、
 紅玉の左目が、こちらを覗きこんでいた。
 加えてブロンドの髪。
 閃きにも似た記憶の再生が起きる。
「ヴィヴィオ?」
「違う。おまえはコロナ。遺伝子的には同一人物だけど、別の生産ルートで作られた別の個体」
 訂正の声は耳を素通りに。
 ヴィヴィオの顔と名を起点に、脳の中で情報が有機的に連結していく。
 デバイス。
 魔法。
 聖王。
 アニメの世界?
「どうしておれはここにいる?」
「ここで生まれたからだろ? それよりさっきの質問に答えていい?」
「どんな質問したか忘れたけど、今は少しでも情報が欲しい」
「私が誰だって話。答えは、おまえの頭の上にある王冠なんだけど」
 聞くやいなや、頭の上に乗ったそれを手に取る。飾り付けられている奇妙にとげとげしい十字架は、そうだ、聖王教会のトレードマーク、剣十字だ。
「さっきデバイスとか言ったか?」
「言ったよ。なんならおまえの足りない頭を補ってやってもいいけど? もともとそのための人工知能だし」
「何の罠だ? 唐突過ぎて気持ち悪いわ」
 タダより高いものはない。困っているときに差し伸べられる手を無我夢中で握ってしまうと、後々になって泣くはめになること請け合いだ。
「だから……、もう……、そんな風により好みできる余裕がないってことに気付かない不自由な脳みそを手伝ってやるって言ってるんだよ。それにタダでなんて誰も言ってない」
「じゃあさっさと条件を言え」
「なんでそんなに強気? まあいいけど。……私はこの施設を出たい。おまえが殺したそいつは、ここの最後の研究者だったから。代わりの足が欲しいんだ。今ならもれなく最短脱出ルートと手錠の鍵も付いてくるよ?」
「よし乗った」
「もう少し考えろよ!」
 即答したらなぜか怒られた。理不尽な話である。
「考えるんじゃない、感じるんだ。それに今さっきおまえが言ったばかりだろ。おれの足りない頭を補うのがおまえの役目だって」
「…………」デバイス、絶句。かと思いきや、「……おまえ、ほんとうにバッカだなあ」
 と呆れられてしまった。しかし、こいつ自身が言ったことではあるのだが、より好みできる余裕などないのが現実なので、手をこちらへと差し伸べたのが悪魔だろうがなんだろうが縋らざるを得ないのだった。いや、ペドフィリアだけには縋らないが。
 涙と鼻水とよだれで汚れた顔を、嫌々ながらペドフィリアの白衣でぬぐってから、おれは冠を頭に載せ、杖を拾い、歩き出した。
「そうだ。忘れてた。おまえのこと、なんて呼べばいいんだ?」
「うん? なんて呼んでもいいけど。王冠でいいんじゃない?」
「そのままだな、おい。それ、おまえがおれを人間と呼ぶのと同じなんじゃないのか?」
「じゃあコロナが考えてくれればいい」
「よし、先を急ぐぞ王冠」
「……いいけど。騎士甲冑、どんなのがいい?」



モドル