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後編


■か

 二人の共同生活は、思いのほか順調に回っていた。
 まりもの中では、デイヴィットの容姿は学生時代の白銀武を想起させる要因となっている。ちょっと抜けたところのある、けれども友人思いの少年だ。そのイメージが強すぎて、多少の緊張はあれど警戒はそれほど濃くない。
 男女の同棲ではなく、教室の延長。そう表現するとしっくりくる。だからこそ、デイヴィットがときどき見せる大人の表情にまりもははっとさせられる。
 彼はまりもの知る白銀武でも、その白銀武が成長した存在でもないのだ。その事実を思い知らされ、同時に、かつての自分が想像以上に白銀武のことをよく見ていたと気がつかされた。ギャップに驚くということは、そういうことだ。比較する材料がはっきりしていなくては、そもそもギャップというものは生まれないのだから。
 記憶の中にいる白銀武の姿は驚くほど鮮明だ。デイヴィットと共に暮らし始めて数日がたった最近になって、まりもはそのことを急速に自覚していた。
 たとえば、

「皿はどれを使いますか?」

 などと、フライパン片手に野菜を炒めるまりもにデイヴィットはそう問う。これがかつての白銀武であれば、リビングの椅子に座ってただ待つのみであったはずだ。
 他人から与えられるのが子供の仕事。それを卒業したとき、子供は大人になるのだろう。言動の端々に存在する『与える側』としてのほんの小さな気遣いが、たとえ面倒を見られる居候であったとしても、デイヴィットが大人の男であるということを示していた。
 こうして二人で机を挟んで食事を取るのも、もう十回を超えている。そんなことをまりもが考えたのは、横に逸れたデイヴィットの視線の先にカレンダーを見たからだった。
 先に視線を戻したのもデイヴィットだった。そして彼は正面に座るまりもが自分と同じものを見たことに気づき、困ったように笑う。それだけで話の流れは決まった。

「『数日』、経ちましたね」
「そうね……」
「香月さんからの連絡はまだ来ていませんし、そろそろ頃合いかと」
「で、でも、もう少し待てば来るかもしれないじゃない」
「来るかもしれないし、来ないかもしれません。もちろん期待はしています。けど、だからこそいま出る結論を信用するのは危ないんです。それがわかっていたから、最初から外部に断基準を置いていたわけですし」

 もっともそれも『数日』という曖昧なものであったのだが。

「まあ、どうにかなりますって。無事なら無事だと連絡します。香月さんからの連絡があったのかも確かめないといけませんしね」
「……そう」

 相談というより報告といった口調に、まりもは反論を諦めた。それは生死がかかっているという事実が未だ現実感を伴わないことも原因の一つではあったが、それ以上になにをしても無駄だと奇妙な確信を得てしまったからであった。きっと、あり得ないが、仮にまりもが泣いて引き止めても、彼は行くだろう。
 感じたのは落胆だった。それに気づいて、自分に驚く。知らぬ間に随分と感情移入してしまっていたらしい。というより、彼のことを知ったつもりになっていたようだ。初対面で数日を共に過ごしただけだというのに。

「ごちそうさまでした」

 話はこれで終いだ、とデイヴィットが箸を置いた。皿の上の料理は綺麗になくなっていた。

「今日の料理も美味しかったです。神宮司さんの手料理を食べられなくなるのは残念ですが……」

 それになんと返せばいいのかまりもが考えると同時だった。
 部屋のチャイムが鳴る。
 まりもは席を立って玄関へと向かう。
 開いた扉の向こうに立つのは、個性を殺すどころか目だって仕方ない黒ずくめの男だった。
 ―――御剣
 まりもは咄嗟に来た道を振り返る。目に入る範囲にデイヴィットはいない。ほっと一息つく前に、男が尋ねた。

「はじめまして、神宮司様。昼食どきに申し訳ありません。私、こういう者でして」

 差し出された名刺は、まりもの直感通り、男が御剣の手の者であることを示していた。

「本来であれば悠陽様、冥夜様が直々にお伺いする予定でしたのですが、なにぶん多忙であられますので急には動くことができず、私が代理として参った次第であります。お二人からは、後ほどご挨拶に伺います、との伝言を預かっております」
「そうですか」
「はい、そうです。ところでさっそく本題に入りたいのですが、いかがでしょう。もちろんお時間は取らせません。一つ二つ、お訊きしたいことがございまして」
「……どうぞ」
「ありがとうございます。ときに神宮司様。この件はくれぐれも内密にお願いしたいのですが」

 まりもが頷くのを確認してから、男は続ける。

「ご存知でしょうが、かつて神宮司様が担任を務めていらした白銀武様は現在、御剣家の中でも非常に重要な位置におられます。それが、数日前から行方不明となっているのです」
「―――白銀君が?」

 うまく驚けただろうか。

「はい。その通りです。ああ、誘拐などではないのでそちらの方はご心配なく。ただ、ご自身の意思による外出となりますと、その行き先の幅は無限と広がるわけでして……、恥ずかしい話ですが、どこにおられるのかとんと見当がつかないのが現状であります。だからといって動かないわけにもいかない。そこで一つの候補地として、武様の故郷でありますこの柊町にて、武様のお知り合いを当たっているところなのです」

 そういう建前なのか。確かに白銀武のクローンが逃走したなどと馬鹿正直にいうはずもない。
 まりもは考える仕草を作り、

「いいえ、心当たりはありません。何かあればすぐ知らせるようにします」
「そうでしたか……。ではご連絡の際は名刺にある電話番号によろしくお願いします」

 いわれて、まりもは先ほど渡された名刺に目を向ける。
 その瞬間だった。

「ところで、お客様がいらしておられるのでしょうか?」

 男が突如話題を変えた。
 まりもの目は男の顔へと向く。

「ああ、いえ。神宮司様はこの部屋にお一人で住まわれていると聞いていたものでして」

 男の目が足元へと向く。釣られてまりもも視線を下げる。
 ざぁ、と血の気の引く音を聞いた気がした。

「このお履き物は神宮司様のものではございませんね。だとすれば、私はとんだ無礼を働いてしまったことになります。どうかお許しください」
「――――いえ。構いません」
「ご寛容に感謝いたします。それでは私はこれで。何かお気づきのことがあれば、いつでもご連絡ください」

 恭しく頭を下げて、男は去った。





「―――ああ、いますね。たぶんあの車だ。……参ったな。さっきのが決定打だったか」

 鏡を使って窓の外を見るデイヴィットはいう。しかし彼のいう通りであったなら、もうそのような警戒の仕方は必要ない。なにせ今日この瞬間まで、窓の外からの視線などに注意を払ってこなかったのだから。

「いや……確信したからこその訪問か」
「……どうするの?」

 自身の言を独り言のように否定したデイヴィット。そんな彼にまりもが尋ねた。

「そうですね。動くならお互い夜でしょう。それまでは相手も大きく動けないだろうし、こうも張り付かれるとこちらとしても動き難い。相手が動かないことにはこちらも動けないですし、いまできることといえば準備くらいです」

 やけに慣れているな。それともこのくらいは当たり前なのだろうか。

「まあ、準備といってもできることなんてほとんどないのが現状なんですけどね。それに、ざっと見たところ部屋に盗聴器は見当たりませんでしたが、電話の方はここだけ調べてどうなるものでもないので、香月さんや他の誰かに連絡を取るのも控えた方がいいかと。それ以外は、夜までいつも通り過ごせば問題ないかと思います」
「問題ないって……」

 逆に問題しかないじゃない。
 先ほど訪れた黒服の男が何人もでやってくるのを、自分とデイヴィットだけで切り抜けられるとは、まりもには到底思えなかった。

「ねえ、やっぱりいまからでも御剣さんたちに連絡した方が……」
「相手もその可能性は考慮に入れているはずです。たぶん連絡すれば五分と待たずにこの部屋に突入してくる。速さの勝負になるでしょうし、きっとかなりの数をつぎ込んできます。そうなると流石に対応しきれません。何より神宮司さんにも危険が及びます」
「あなた……」まりもは言葉に詰まった。「一人でどうにかするつもりだったの?」
「逃げるだけなら、どうにかなると思いますよ。この数日で、とりあえず周辺の地図は頭にたたきこみましたし」

 事ここに至って未だにこのような思考をするデイヴィットに、まりもは呆れかえった。それは彼の浅慮を上から見てのものではない。むしろ彼の性格を好ましいと思った自分への呆れだった。
 迷惑はいまさらだし、危険についていえば、もういまの段階で、クローンの存在を知る者としてまりもが認識されていてもおかしくない。だが、それを口に出していったところで、彼が余計に申し訳なく思うだけだろう。だからまりもは、自分がどのように動くつもりであるかをいうことはなかった。
 やがて夜が来た。





■が

 外の様子を窺おうと、玄関の扉を小さく開けた瞬間だった。

「……ッ!?」

 どう見てもあっさり捕まりました。本当にありがとうございます。
 某宇宙人を彷彿とさせる姿勢で、黒服さん達に両腕を抱えられたデイヴィット。抵抗虚しく、逃げ出せる見込みはもはやない。
 玄関で起きた物音に気付いた家主が顔をのぞかせた。

「デイヴィット……ッ!」

 驚きの声を上げたまりもは、このとき、明らかにテンパっていた。少なくとも、他者の目にはそう映った。
 なにせ拳銃を構えるようにかっこよく突き出した手には、

「動かないで! 動くと電波を発するわよ!」

 小さい携帯電話がストラップを揺らしながら握られていたのだから。
 堂に入った啖呵だったが、意味ねー、と誰もが思った。闇に溶け込む黒服の彼らでさえも、そう思った。
 カラン、
 と何かが地面に落ちる固い音がした。それは聞いたことのない人はいないくらいポピュラーな音だ。
 空き缶が地面に撥ねる音である。
 どこにでもあり得る音。しかしこの場には酷くそぐわない音。
 誰もが―――まりもでさえ―――そちらに顔を向けた瞬間、デイヴィットが動いた。一瞬の早業で拘束を抜ける。鋭い投げ技。黒服の男が背中から地面に叩きつけられる。皆の視線がデイヴィットに戻る。デイヴィットが駆けだす。その先にいるのはまりもだ。黒服の男がデイヴィットを捉えようと手を伸ばす。デイヴィットは走る。まりもとの間にあった数メートルの距離を詰め―――
 抱きしめられるのが先だったか、耳を潰す大音響と目を焼く閃光が先だったか。
 幸いにしてまりもの頭部はデイヴィットに抱えられており、目も耳も無事だった。しかし黒服の男たちはそうではない。そしてそれは、自分の耳を塞ぐべき手でまりもの頭を抱き寄せたデイヴィットにしても同じことだった。
 更に、爆発した空き缶とは別の空き缶が再び地面に撥ねる音。間もなく部屋は煙で満たされた。続けて、人が次々と崩れ落ちる音。

「行くわよ。まりも」

 時間にしてほんの数秒ではあったが、まりもには随分と長く感じられた一連の流れの後、すぐ近くで囁く声があった。
 聞きなれた声にほとんど条件反射的に従って、現れた親友と共に、未だ棒立ちになっているデイヴィットの腕を引き、まりもは部屋を脱出した。
 ぼんやりしたままの頭は、抱きしめられたときのにおいがまだ鼻に残っているなあ、などとどうでもいいことを考えていた。





「本当に助かりました。ありがとうございます。香月さんがいなかったらどうなっていたかと思うと」
「まったくよ。ちょっとでもあたしの到着が遅かったら、今頃あんた、ここにいなかったわね。捕まればバラバラにされて脳髄だけシリンダーに放り込まれたりしたんじゃない?」
「どんなSFですか。それより、どうしてあのタイミングで?」
「御剣と連絡取れるまでにもう少し時間がかかりそうだってことを伝えようと思ったんだけど、電話越しに伝えるのも万が一のことを考えれば避けるべきだったし、直接出向くことにしたのよ。で、いま到着したってマンションの駐車場から連絡してみれば、まりもがあんたの名前を叫ぶじゃない」
「ああ、じゃあ神宮司さんが玄関に来たとき、ちょうどつながっていたんですか」
「そうよ。笑って死ぬかと思ったわ。動くと電波を発するわよ!」

 キリッ、とモノマネして見せ、それから相好を崩す。ドンドンとステアリングを叩くのは、走行中にはやめてほしい。

「あ、あのときは混乱してたのよ……」

 力なく言い返すまりもは助手席に座っている。正確には、助手席に座るデイヴィットの上に座っている。ストラトスは二人乗りなのだ。
 見つかれば今度は制服の人たちに捕まるだろうが、緊急時なので仕方がない。

「動かないで! 電波を発するわよ!」
「もう! 夕呼!」
「痴漢撃退用にマイクロウェーブでも発射する携帯電話、作ってみようかしら。電波をマイクロウェーブに置き換えてさっきのセリフいってみなさいよ。ちょっとは様になるかしれないわよ?」

 痴漢もレンジでチンされては堪らない。
 二人のやり取りがあまりにも自然すぎて、デイヴィットにもこれが日常の風景なのだと理解できた。だから、無粋な割り込みでそれを壊すのをもったいないと思いつつ口を開く。

「ところで香月さん」
「わかってるわよ。ったく、鬱陶しいわね」

 夕呼の舌うちはバックミラーに向けられたものだ。
 夜の暗闇に輝く猟犬の瞳を思わせるライト。
 年末のこの時期、この時間。もとより交通量の少ない道は、夕呼のストラトスと、

「まだ二枚張り付いてます。外は普通のセダンだけど、この分だと中身は違うかもしれませんね」
「よく見てるじゃない」

 途中で一台ずつ二回振り落としたのだが、その度にどこからともなく現れた新手が合流し、結局二台に追われるという状況は変わらない。夕呼はかなり無茶な走りを実現しているが、追手もそれにしっかり食らいついてくる。

「ま、アレの中身は運転手も込みでどの程度のものか試してみることにしましょ。ちゃんとシートベルトしときなさいよ?」

 助手席に二人。いわれるまでもなくシートベルトを回している。
 じきに峠道へと入る。デイヴィットが夕呼に出会った、もとい轢かれた地だ。

「あ。そういえばあんた、どこかで武術でも習ってたの?」

 脈絡のない質問に、デイヴィットは首をかしげる。

「いや、そんな記憶はない、というかそもそも記憶なんてないんですが。どうしてです?」
「いざとなったらあたしが二人を引きずっていく覚悟もしてたんだけど、あんた、あのとき黒服を投げたでしょ。それが随分手慣れてるように見えたのよ」
「はあ……そういえばどうしてでしょうね。体が勝手に動いたような気がしたんですけど」
「あんまり詳しくはないから断言できないけど、軍隊の格闘術にああいう動きがあったような気がするわ」

 それにどのような返事をすればいいのかわからず、そもそも返事を求めているようには聞こえなかったので、デイヴィットは口をつぐんだ。
 代わりに尋ねたのは、ここまで二人の会話を聞きながら、デイヴィットの吐息が首にくすぐったい、などと考えていたまりもだった。

「そういう夕呼は、どうやったの?」

 煙の中で複数名の男たちを順に昏倒させていったのは、状況からして夕呼しかありえなかった。

「あたし? そうねぇ……、まぁ、携帯電話で倒したんじゃない?」

 ぐ、と言葉に詰まるまりもを楽しそうに見てから、

「じゃあくわよ」

 口の端で肉食獣のように獰猛な笑みを作り、夕呼がいった。
 同時に、シートに体を押し付ける重圧が強くなった。





■み

「ではタケルは神宮司教諭、それに香月教諭と行動を共にしていると……」

 深刻な顔で頷いたのは真那だ。

「はい。それも、まず間違いなくご自身の意思によるものであるようです」

 武が姿を消したせいで皺寄せがきたのは、現在彼と同程度の重要度を持つ冥夜、そして悠陽であった。だから彼女らは自ら動きたくとも動けなかった。その結果が、この有様だった。
 もし彼女らが自身の足で彼の前に出れば、あるいは原因を知れたかもしれない。しかし代理で向かった部隊は身柄を押さえるどころかその心を聞くことすらできず、全員が揃って倒れているところを別のチームに回収されたという。

「やはり最初からわたくしたちが向かうべきでした」

 悠陽の声も落ち付いてはいるものの、その表情と合わせて暗い。
 姉妹の脳裏をかすめた考えは同じだ。
 ―――彼は御剣に耐えられなくなったのではあるまいか。
 そのようなことは決してありえないと信じている。自分が生きている限り、彼のことを信じ続ける。それは組み込まれた機能、もしくは生態といっていいほどに強固な思い。
 しかし彼女らとて人間だ。嫌な方向へと気持ちが流れることもある。特に最大の支えがいない今、揺れ動きやすくなっても無理はない。
 だから、振り子のように揺れるのならば、糸を切ってしまえばいい。
 悠陽がいった。

「冥夜。真那さん。今晩の私たちの予定は、どのようになっておりましたか。実は先ほど、手帳をどこかでなくしてしまったことに気がついたのですが」

 そんなあからさまな偽りを口にする裏を、尋ねられた二人は正しく読み取った。

「申し訳ありません。姉上。どのような偶然かは存じませんが、実は私も今しがた確認しようと思ったとろ、すべての予定を記した手帳が見当たらないことに気づいたのです」

 真那もそれに合わせて、二人のスケジュールを把握する人間への連絡は今日中には取れないと告げた。
 こうして彼女らは、いまこの瞬間を以て、することのない暇人となった。そして彼女らは、空いた時間を無駄に浪費することができない真面目な人種。何かすることはないかと探したところ、ちょうど白銀武がいなくなっていたので、自らの足で捜しに行くことにした。
 そんな強さを後押しするように電話が鳴ったのは、偶然ではなく運命だと呼ぶべきだろう。正道を往く彼女らには、幸運を呼び寄せる力が確かにあった。
 電話の向こうで口を開いたのは、鏡純夏だった。





■す

 柊学園を卒業し、そのまま内部の進学ルートに乗って大学へと進んだ。鏡純夏の日記には、以降が存在していない。何冊も書き溜めたそれは、ようやく過去を象徴するものになったのだ。
 誰のための日記であるかといえば、それは純夏自身のためのものだった。しかし何のための日記であるかといえば、白銀武との生活のためのものであったのだ。
 だから白銀武との生活が終われば、その存在意義が失われるのは必然だった。
 武のいない生活など、純夏には想像もできなかった。想像したくないのではなく、純粋に、能力の限界として、不可能だったのだ。そして想像できないままにその季節はやってきて、隣に彼がいないことに、ほんの少しだけ慣れていた。それが成長だというのなら、子供のままでよかった。純夏はそう思った。
 武のいない春が過ぎ、武のいない夏が過ぎ、武のいない冬が過ぎ、気づけば一年経っていた。
 武のいない春が過ぎ、武のいない夏が過ぎ、武のいない冬が過ぎ、気づけばまた一年経っていた。
 相変わらず友人とは上手くいっているし、相変わらず隣に武はいない。誰もいない空間に話しかけてしまうことも、もう随分と少なくなっていた。
 そしてまた季節がめぐる。
 春には桜が舞い、夏には星が瞬き、秋には月が満ち、冬には雪が散った。
 それは年の終わりも間近に迫った日のことだった。柊学園時代からの中の良い友人たちで集まって、例年通りにクリスマスパーティーをしようということになった。純夏が街を歩いていたのは、食材の調達やら何やらといった、パーティーの準備のためだ。

「―――タケル、ちゃん?」

 だから、思いもしなかった。ただの見間違い。きっとそうだと思った。
 だというのに、声はその背中に手を伸ばすよう口からこぼれていた。
 並び座る少しだけ大人になった二人の距離は、かつてより少しだけ開いている。
 衣服越しに伝わる公園のベンチの冷たさは、いまは気にならなかった。

「そうか。……みんな元気にやってるんだな」
「あ。タケルちゃん、いま少しだけ残念そうな顔した」
「ああ? なんでだよ。安心ならまだしも」

 最初こそぎこちなかったものの、話し始めれば、まるで昨日の続きのように調子は戻った。それが信じられなくもあり、どこか納得できるところもあり。

「オレはいらん子だったんだな……とか思ったんじゃないの?」
「思うか、そんなこと!」
「どーだか。それで、なんでタケルちゃんはこんなところにいたの?」
「こんなとこって……」

 呟くその反応を見て、武にとって柊町は『こんなとこ』じゃなくなったのだ、と純夏は悟った。
 生まれ、育った町。そのありふれた無価値さは、純夏の中にはまだ存在している。けれども武の中には、既に価値ある『故郷』という形で存在しているのだろう。それは悠陽や冥夜がこの町に抱くものとよく似ているのかもしれない。

「まあいいか。別に大した理由じゃないぞ。荷物の宛先を間違えて実家に指定したから取りに来ただけだ」
「そんなこといって、ゲームセンターで遊んでたじゃないのさ」
「そりゃアレだ、通りすがりにちょっと覗いたらえげつない戦い方してるプレイヤーがいたから天誅をだな」
「通りすがるような場所じゃないけど? そう考えると、宛先を間違えたのだって怪しく見えてくるよ」
「……純夏にしては鋭いな」
「あー! じゃあやっぱり知られたらまずい物でも買ったんだ! タケルちゃんのエッチー!」
「ち、違う! 冤罪だ! というか真昼間から外でそんなこと叫ぶなこのバカ!」

 ビシッとチョップを入れようとして、けれども降り上げられた手は力なく下ろされる。
 純夏には、それが何より辛かった。
 隣にいるのに、隣にはいない。武のいない生活がどのようなものであるのか、ようやく理解できた気がした。
 なんとなく、もう誰もいない隣に話しかけることは二度とないだろう、という予感があった。





■み

『―――それで、その後はしばらく気まずかったんだけど、結局いつもどおり言い争いになって……、その……』

 いいにくそうに言葉が途切れる。
 一度、代理の人間が純夏の元にも聞きこみに行った。そのときはこのような話は出なかった。それはつまり、他人にはいいたくない話をいましているということに他ならない。思い返すだけで辛いであろう出来事を、隠すことなく話したのだ。電話をよこすのが遅れたというが、果たして自分が彼女の立場にあれば、このように連絡を取ることができたかどうか。
 純夏が続けるまで、冥夜は瞑目して待った。
 互いに恨まないという約束はあった。それでも冥夜たちは武を御剣に引きこんだ―――言い換えれば奪った側なのだ。それまで体験したことのなかった類の引け目を感じ、忙しさを言い訳に、もう長い間疎遠になっていたのは否めない事実である。それと同質の臆病さが、純夏に連絡を躊躇わせたのだろう。純夏の心境がある意味で手に取るようにわかったため、冥夜には武と純夏の二人がどのような話を交わしたのかということまで聞き出すつもりはなかった。

『えっと、その……』
「純夏。いい辛いことであれば、無理にいわずともよい」
『え? あ、いや、きっと冥夜が思ってるいい辛さとは違うと思うんだけど』

 どういうことか。
 冥夜が聞き返す前に、純夏はいった。

『思わず、その、手が出ちゃって……、ドリルミルキィでタケルちゃんがどこかに飛んで行っちゃったの……』

 正直、聞かないほうがよかった。





■か

 夕呼がコートを脱ぐ。その下は相変わらずというべきか、暖房の効いた部屋だとしても、見ている方が寒くなる露出度の高さだった。まるでこだわりのように量産品しか置かないビジネスホテルの一室は、親友には全く相応しくないように見える。
 デイヴィットを隣室に放り込み、二人はようやく一息つくことができていた。

「それで、どうだったの?」

 尋ねたのは夕呼だ。

「どうって、なにがよ?」
「だから、ナニよ」

 夕呼がデイヴィットとのことをいっているというのは理解できた。

「…………」

 うわぁ、とジト目で見るまりもを心外そうに見返して、夕呼。

「いまさらあたしの前でカッコつけたって意味ないでしょ。それともなに、本当に何もなかったっていうの?」
「当たり前でしょ。あとなになに連呼しないで」

 今度は夕呼が、うわぁ、という顔を作った。こいつ信じらんねー、と目がいっている。

「あんたねぇ……。命の危機と認識する状況にあってなお頼れる人がいない以上、あんたが匿うことにした時点で、まりも、あんたの勝ちは決まってたようなもんなのよ? それを……、人がいいのはいいけど、そんなだからいつまでたっても……」

 まるで何かあるのが当然のような反応に、一瞬、まりもは自分がおかしいのかと錯覚しかけた。けれどもこれはよくあることだ。特に夕呼との付き合いでは、一瞬でも自分を疑えば、容易にそこから突き崩される。
 自分は真人間として常識的な行動を取った、とまりもは気を持ちなおした。
 一方の夕呼は、なにやら全てのやる気を失ったかのようにベッドに背から倒れ込んだ。その勢いが押し返され、一度体が小さく跳ねる。

「それよりも、夕呼、これからどうするの?」
「どうもしないわ。あー……、まったく、あたしの努力は何だったのよ……。なんのために寒い中いろいろと奔走したんだか」

 本格的に訳のわからないことを呟きはじめた友人は、しばらくの間はこの状態のままだろう。
 なんだか急に疲れた気がする。まりもは同じようにベッドに倒れ込もうとして、少し思い直して腰を掛けた。
 それにしても、振り返ってみれば、今日はとんでもないことが続いた日だった。いまになって、自分が恐ろしい事態の中心付近にいたのだという認識がようやくい付いてくる。この感覚は、すぐ傍を大型トラックが高速で通過していった直後のそれに近いものがある。ギリギリのところで助かった後、遅れて危機を認識した脳が昂揚している。そして、混乱から抜け出し気が昂る余裕が生まれたからこそ、つい今しがたの親友とのやり取りを思い出し、もったいなかったかもしれない、などと考えを巡らせてしまった。
 出会いや素性はどうあれ、デイヴィットが好人物であったことは間違いない。その容姿は―――元となった人物を考えれば当然ではあるが―――元教え子を思い出させるものではあるが、まりももいい大人だ、そのくらい割り切れないなんてことはない。ああ、これは本当に失敗したのではなかろうか。いやいや、けれども危機にある人を助けるのは当然で、それを対価に迫るような真似なんて。
 正常ではない思考がぐるぐる渦巻く。心身の疲れがピークを越えて、逆に元気になるこの感じは、しかし醒めたときの疲労感が半端ではないことを経験から知っている。
 部屋の扉がノックされたのは、それからしばらく経ってから、だけどまりもの脳の火照りが覚めるまえのことであった。
 現れた御剣の姉妹を見て、まりもはようやく心の底から安堵した。



モドル