前編


■は

 神宮司まりもの年末は、平穏であったためしがない。少なくとも、すぐに思い出せる範囲では穏やかな年末というものが存在しない。
 有明。
 嫌な響きだ。
 恋人はいなくてもいい。一人きりでもいいから、ゆっくりとした年末を過ごしたい。
 二十代後半独身女性のささやかな願いである。
 もしかすると―――。叶わぬと知っていながら、まりもは期待せずにはいられなかった。今年は厚薄を見ながら年越し蕎麦で年末年始を迎えられるかもしれない。
 この日、毎年まりもを絶望に陥れる親友が、二人の勤める柊学園の終業式が終わってすぐに、愛車に乗って姿を消したのだ。普段なら、空いた(職員会議を素早く終わらせ、空けた、ともいう)半日を使って衣装合わせなどが行われる。しかし今年は、おなじみといってよいほど繰り返された恒例のイベントがなかった。これは、期待しないほうが間違っている。
 親友が戻ってくる前に、まりもはそそくさと職場を離れ帰路についた。もちろん親友が通りそうな道は避けるという徹底した保身は忘れない。
 家に入るまで、ストーカーに狙われていることを自覚する女性のように、周囲への注意は怠らない。
 そしてまりもはついに安楽の地・自宅へとたどり着いた。
 他人の家に忍び込んだ泥棒のごとき慎重さで鍵をかけた、その瞬間……

 ―――携帯電話が……鳴ったッ!

 見られていたかのような絶妙なタイミング。
 まりもは恥も外聞もなく、ひっ、と喉の奥で引きつるような悲鳴をあげて飛び上がった。
 恐る恐るディスプレイを見る―――までもなく、このメロディは不吉を告げるものであることを、まるで反射学習について学ぶための教材として使われるマウスのように、まりもの体はしっかりと覚えていた。
 逃げたことを咎める電話だろうか。
 やはり自分のような売れ残りの独身女には、コスプレをして過ごす年末がお似合いなのだろうか。
 でも最近、肌を露出するのが辛い年齢になってきたし、どうにかして許してはもらえないだろうか。
 無理だろうなあ。

「―――はい」

 スピーカーを耳に当て、まりもは覚悟を決めた。

『あら、早かったわね』

 出るまでの時間に比例して罰が肥大化することは、重々承知している。

「……どうしたのよ? 今日はドライブに出たんじゃなかったの?」
『ふふふ……』

 返事は上機嫌に笑う声。
 背筋に痺れが走る。

「な、なに?」
『まりも〜。あたしから逃げようったって、そうはいかないわよ〜?』

 いま、あなたの後ろにいるの。そういわれた方が何倍もマシだった。
 おわった。
 でも、追い詰められたネズミがネコを噛むことだって―――

『―――と、いいたいところだけど』
「……え?」
『毎年毎年頑張ってきたんだから、たまにはご褒美の一つくらいあげないと……ねぇ?』

 このまえ一緒に見た軍隊モノ映画の中で、教官の軍曹が訓練兵たちにいった、南の島でバカンスだ、という類のジョークだろうか。
 褒美に有明に行く権利を与える、とかワゴンの覇者じみたセリフが次に来ないことを願いながら、

「ご、ご褒美……?」

 わずかな光が見えると縋ってしまうのが人間なのだった。
 ―――だめよまりも、期待はいつだって失望を二乗するんだから!
 まりもは喜ぶ自分を必死に教戒する。
 しかし、まりもの虚しい努力などそっちのけで、今日の香月夕呼は一味違った。

『そんなに警戒しなくてもいいわよ。今回はそういうのじゃないし、安心なさい』

 そういうの、という言葉で通じるあたりでまったく安心できないのだが、声に邪気がないのもまた事実だった。
 香月夕呼は、単に獲物を罠にはめるだけで喜ぶ人間ではない。罠にはまるしかないと知りつつも、絶望しながら罠への道を行く獲物を見てこそ愉悦を得る人間なのだ。
 なので、普段はもっと、こう、やたらと不安を煽るようなことを、やたらと不安を煽るような声色で囁く。だが、この日に限っては電話の向こうにその手の気配が不在。
 どういうことかと首をかしげるまりもに、夕呼は告げる。

『毎度のごとく寒い冬を過ごしてるあんたに、男を紹介してあげる。それもとびきりの』
「はあ?」
『なぁに? いらないの? だったらなかったことにしてもいいけど』

 夕呼をしてとびきりとまでいわしめる男とは、果たしていかほどのものだろうか。
 まりもの中で、興味や好奇心といった感情がむくむくと頭をもたげてきた。
 そこらのグルメでは相手にならないほど、まりもの親友のストライクゾーンは狭い。いや、たとえるならば、ハードルが高い、という表現が適切だ。無謀にも挑んで飛び越せなかった男は、容赦なく地面に叩き落とされ、それはもう悲惨な結末へと至る。自尊心とか、特に。
 夕呼はまりもを玩具扱いするものの、付き合う男については色々とうるさいのだ。あれは、彼女なりにまりもを心配するからであり、同時に、本人は決して認めないだろうが、まりもを取られたことに嫉妬する感情もあるに違いない。
 そんな夕呼が薦めるからには、言葉のとおりにとびきりの男なのだろう。

「ま、待って、まだなにも答えてないじゃない!」
『―――フィッシュ』
「……? なにかいった?」
『わかったっていったのよ。待ってなさい。いまからあんたの家に届けてあげるから』
「いまからって、ちょっと! 待ってよ、まだ」
『待てないわ。男は新鮮なうちに届けないとすぐダメになるんだから。十五分で着くからよろしく〜』
「―――夕呼、ちょっと夕呼!?」

 電話は切れていた。乾いた電子音。
 かけ直してつながらないことは知っている。さらにこの状況、無駄なことに時間を使えないのは明らかだ。夕呼は不可能なことを可能とはいわない人間である。自ら刻限を指定した以上、地球が滅ぶ危機を放り出してでも己の言葉を現実のものにする。
 まりもは壁の時計を見上げて、十五分という時間の短さをシミュレートした。
 昼食の準備は無理だ。せいぜい部屋を片付ける程度だろう。それも、完璧とはいい難い仕上がりになること間違いなし。

「ああ、もう……」

 どうしてチャンスというやつは準備が万全でないときに限ってやってくるのか。
 一度首を振ってから、まりもの短い戦いは始まった。
 近所迷惑なクラクションが鳴る。音の発信源はマンションの外。どうやら親友も奇妙な具合にハイってやつになっているらしい。まりもの胸は、知らず高鳴っていた。それが期待なのか不安なのかはわからない。
 それはともかく、最後のチェックをする。
 日ごろからそれなりに整理整頓していたおかげで、やはりそれなりにではあるが、見られる形にはなっている。部屋の中に洗濯物を干していたり、床に本を積み上げていたりはしない。服装だって、部屋でくつろぐためのものでも、職場で身につけるものでもない。
 涎こそ垂らしはしないが、餌の前で飼い主の許可を待つ犬そのものの心境。しかし玄関で待つのもはしたないと考えて、リビングのソファに腰かけ、誰も見る者のいない部屋の中、ドキドキわくわくしてませんよ、と弁解するように背筋を伸ばして行儀よく、まりもは客人二人を待ち構えていた。
 チャイムが鳴る。
 走らぬよう、早足にならぬよう、平静を心がけながら玄関に向かい。

「いらっしゃい、夕呼。それに」

 夕呼の斜め後ろに付き人のように控え、なぜか酷い目に会ったすぐあとみたいに所々に傷がある、けれども一目で上等だとわかるシャツ、ジャケット、スラックスを身につけた男の顔へと目を向けて、

「―――白銀、くん?」

 返事の代わりに、自分や夕呼よりも年下だと思われるその男は、知り合いに向けるものではない視線をまりもに向けた。
 知りあいどころか顔見知りどころか、まるで初対面の人間に向けるような表情を見て、まりもは自分が間違っているのかと不安を覚える。それほどまでに、男はまりもの元生徒としか思えない容姿をしていたし、男の視線は意図して初対面を装っているものではなかったのだ。
 どういうことなのか。
 まりもは目で親友に説明を求めるが、

「詳しい説明はあとよ。誰かに見られるまえに入りましょ」

 津波のようにまりもを押し、ついでに幾分成長してはいるものの、かつての教え子そっくりな、いや、本人であるとしか思えない男の腕を掴んで、夕呼はまりもの部屋に滑り込んだ。
 わけがわからないが、しかしまりもの嗅覚は厄介事の臭いをしっかりと嗅ぎわけていた。
 どうせこんなことだろうと思った。わずかにも期待した身であるがゆえに、口が裂けてもそんなことはいえない。
 代わりにまりもの口から出てきたは、未来の分を先払いするかのような深い深いため息だった。





■ん

 時間はわずかにさかのぼる。
 ブロロギャイーン、と相変わらずの危険運転で愛車ストラトスを駆る彼女。名を香月夕呼という、白陵大付属柊学園において最強を誇る教諭である。
 いや。その力、最強ではなく―――無敵。
 夕呼はわざわざ戦うような無駄はしない。かといって味方を増やすことはせず、ただ圧倒的な力を見せつけるのみ。相手の戦う気力を削ぐようなやり方で敵を作らない。
 そんな彼女は今日も華麗に同僚の頭が固い教諭たちを黙らせて、食後のデザートならぬ職後のドライブ中である。
 薄墨を流したような空の下、冷たい空気を切り裂いて加速。
 身体がシートに押し付けられる圧迫感。
 愉悦に自然とつり上がる口の端。
 景色が視界の端を高速で流れていく。
 ぐ、とアクセルペダルを更に踏み込み、そして、

 ―――スパーンと誰かを撥ねた!

 撥ねられたどこかの誰かは星になった。
 ストラトス。語源は『stratosphere』すなわち『成層圏』であり、被害者はその語のとおり成層圏あたりまですっ飛んでいったのであった。

「……?」

 地面に盛大なタイヤ跡を残して急停止した夕呼は、首をかしげて鈍色の空を見上げた。一瞬の出来事ゆえに確証はないが、空の彼方に飛んで行った男に見覚えがあるような気がしたのだ。
 記憶によれば、男の名前は白銀某。いや、もう白銀ではなかったかだろうか。式の招待状は来ていないので、あるいはまだ白銀なのかもしれないが。
 その人物は、数年前に彼女の元から――柊学園は事実上夕呼の物なので、この表現はおかしくない――巣立っていった、珍しく彼女とやりあえる素質を持った生徒だった。話には、本当に世界一の逆玉を実現し、いまは世界の御剣の頂点も目前らしいのだが、そんな男がこんな峠道でなにをしていたのか。
 元生徒にして、現在は星の数ほどの人間を従える男を轢いたことなど少しも気にした素振りがないのが香月夕呼だ。轢かれた彼がここにいれば「そこに痺れる憧れるぅ!」と涙を流しながら訴訟を諦めたであろう。
 結局、ここで停車し続けても仕方がないので夕呼は再度車を発進させた。
 しかし物語はここで終わりはせず、かつてのように騒がしくも面白い彼女の数日は、このときから始まることとなる。
 しばらく進んだところで、夕呼は先ほどの男を再び―――撥ね飛ばした!

「あら、やっぱり白銀……御剣……白銀じゃない。久しぶりね」

 今度は星にならなかった男に、夕呼にしては珍しく言葉選びに迷いながら話しかけた。ボロ雑巾みたいなことになった彼への気遣いは、やはり存在しない。
 しかし男はそんな態度に怒るでも呆れるでもなく、ただ不思議そうに見返すだけだった。

「どうかしたの? 懐かしいのはわかるけど、そんなアホ面のままでいたらちっとも成長してないと思われるわよ?」
「あ、いや……、その……」
「なによ、ハッキリしないわね。頭でもぶつけた?」
「もしかして……あなたはオレと知り合いなんですか?」
「…………………………」

 普段彼女にいじめられているときの友人みたいに汗をだらだら流しながら、夕呼の頭脳は高速で回転していた。彼女の知能は、常人には理解しがたい飛躍力と並んで、思考の速さも優れた点として挙げられる。それは既に歴史に名を残した天才たちの域にまで達しており、遥か未来の常識を口に上らせる彼女は、多くの天才がそうであったように学会から冷笑を浴びせられ、在野の天才学者の名に甘んじているのだ。
 同質量の黄金と比べても遥かに高い価値を持つ彼女の脳は、瞬きを数回繰り返すほどの短時間で計算を終了した。

「―――そうね。知り合い、というよりは……事情を知っている人間だ、といった方が正しいのかもしれないけれど」
「それはどういう―――」
「いいわ。ここで会ったのも何かの縁。説明してあげるから、まずは―――」

 視線でパッセンジャーシートを指して、

「乗りなさい。走りながらだったら、誰かに話を聞かれることもないでしょうし」
「聞かれることもない……?」
「いいから。乗りなさいっていってるのよ」

 謎の迫力に背中を押され、彼はドアを開き、夕呼の助手席に着く。
 隣からシートベルトを装着する音が聞こえる前に、夕呼はアクセルを踏んだ。
 しばらくはきついカーブしかない道が続き、ようやく直線にタイヤが踏み込んで運転が楽になった頃を見計らって男が口を開いた。

「それで、あなたが知っている事情って―――」

 早く聞きたいだろうにここまで我慢してきた男を更に遮って、夕呼がいう。

「待ちなさい。その前に確認しとくことがあるわ。あんた、自分の名前はわかる? 年齢は? 住所は?」

 男が息を呑む気配。
 やはり、と思う夕呼はしかし表情を変えず、男の返事を聞く。

「―――いえ。でも、どうしてそれを」
「だからぁ、あたしはあんたの事情を知ってるっていったでしょ。そうねぇ……、端的にいって、あんたは記憶を思い出せないんじゃなくて、記憶がないのよ」
「記憶が……ない?」
「そう。Generalized Amnesia、全生活史健忘―――俗にいう『ここは何処、わたしは誰』ってタイプの記憶喪失。これは普通は心因性。脳の記憶を司る部分が壊れたわけじゃあない。だから本当に『喪失』しているのではなく、『思い出せない』というのが正しいわ。ほら、頭を叩いて記憶を『取り戻す』描写とかあるでしょ? これは、正しくは『取り戻す』ではなく『思い出せるようになる』ってこと。でも、……あんたの場合はそうじゃない」

 口調は重く。
 陽の光が差さない冬の午後は、まるで鉛のよう。
 真剣な目で話を聞く男を横目で確認してから、夕呼は話題を切り替えた。

「ところであんた、御剣財閥って知ってる?」
「……はい。大丈夫です。といっても巨大な財閥ってことくらいで、詳しいことはわかりませんが」
「そう。つまりそれは、御剣財閥って言葉が自分に関わる知識としてではなく、社会的な記憶、要するに常識みたいな形であんたの中にあったってことね。……ふぅん、じゃあますます思ったとおりってこと」
「どういうことですか?」

 男の声に苛立ちが溶けだし始めた。

「あんたの状態は、さっきいった全生活史健忘に非常によく似ている。たぶん事情を知らない人間が見れば、十人が十人、そう判断するでしょうね。でも、そうじゃない」
「だから―――」
「聞きなさい。わたしはねぇ、あんたのことを思って話してあげてんのよ。知らない方がいいことなんて、この世の中にはごまんとあるんだから」
「それがオレの記憶だっていうんですか?」
「だからいったでしょ。あんたに記憶はないのよ。聞く覚悟がないやつに話せるのはここまで。よく考えなさい。聞いてから忘れることなんて、それこそできやしないんだから」

 夕呼の言葉を吟味しているのか、男は黙り。
 唸るエンジン音が車内に鈍く満ちる。
 窓の外。
 雪が降り始めた。
 ちろり、ちろり。
 空気を舐めるように。
 雪が舞う。

「―――聞かせてください」

 男の言葉に、

「あんたはあたしの元生徒にして御剣財閥次期総帥のクローンよ。影武者として作られた、ね。記憶がないのは当たり前。だって過去がないんだもの」

 夕呼は応えた。

「捕まれば、まず間違いなく消されるわよ?」



 もちろん。
 すべて真っ赤な嘘である。





■に

「まりも。あんたは今日からこいつと一緒に住みなさい!」
「………………はあ?」

 なにがなんだかわからない。
 どこかの名前がアルファベット一文字の探偵みたいに混乱したのは、なにもまりもだけではなかった。

「なにいってんですか香月さん」

 夕呼が連れて来た、名も知らぬ男。彼もまた、意味がわからぬと表情が告げている。きっとこの白銀あるいは御剣武似の男も、自分と同じく被害者なのだろう。
 勝手に妙な連帯感やら同族意識やらを抱くまりもであった。
 が、被害者が連盟を作って団結しようがなにをしようが、自然災害そのものな香月夕呼に敵うはずもない。放っておくと、それじゃあね〜、などといって二人を放置し帰ってしまう可能性も十分にありえるので、まりもは急ぎ問いかけた。

「どういうことか説明しなさいよね、夕呼」

 腰に手を当て呆れを表現するまりもに、

「そうね。じゃあ、まずは彼について説明するわ」

 男の方を指して、

「彼は御剣財閥が作った、白銀武のクローン体よ!」

 な、なんだってー!?
 と驚くまえに、普通の人間であれば、なにいってんのおまえ、と反応する。そしてまりもは、まだ、辛うじて、夕呼の親友だが、ぎりぎりのラインで、狂犬とか呼ばれたこともあるけど、普通の人間であった。
 まりもの生温かい視線を受けた夕呼は、つまらなさそうに、けれども嘘がバレたときの開き直りは少しも感じさせない口調で続けた。

「いつの時代、どこの地域であっても、権力者は自分の影武者を作ることに腐心するものよ。ま、それでもそこらの国のトップ程度じゃ自分そっくりの人間を連れてくるぐらいがせいぜいなんでしょうけど、天下の御剣財閥に限っては違った。
 彼らには、既にヒトクローンを可能とする技術がある。
 最先端の科学技術は、一般に公開されているものより三十年も五十年も先をいってるっていうでしょ? で、その最先端の科学技術っていうのは、普通は軍事技術。そして、御剣財閥は世界中の軍事大国ともつながりを持っている。しかも、軍から技術を提供されるよりも、むしろ軍に技術を提供する側として。
 なんであたしが御剣財閥の事情や隠されているはずのクローン技術について知っているかというと、別の分野の研究にわずかなりとも携わっているからよ。そこで噂話程度に耳に挟んだだけなんだけど、そのときはあたしも、まさか事実だとは思わなかったわ。でも、なんの偶然か、彼があたしのまえに現れた。それでピンときたってわけ。
 しかも、訊いてみたところ彼には自身についての記憶が一つとしてない。だというのに流暢な日本語をしゃべることができるし、当たり前のように歩くこともできる。この一見すると全生活史健忘のような状態を鑑みるに、御剣財閥はヒトクローンだけでなく、人為的に人間の記憶を操作する技術を持っていると思われる」

 怒涛と表現するに相応しい、しかし一度も途切れることなく滑らかに続けられた説明に、まりもは思わず納得しかけた。しかし、それを止めたのは教師としての神宮司まりもだった。
 まりもは自分の受け持ったことのある生徒たちをよく知っているし、大事に思っている。なにより、信じている。
 数年前に受け持った、御剣の姓を持つ姉妹と、常に騒動の中心にいた一人の少年。あの騒がしくも楽しい時間を過ごした彼らが、夕呼の語ったような人道から外れたことをするだろうか。
 内心で己に問い、出た答えはやはり、

「御剣さんや白銀くんが、そんなことをするはずないわ」
「どっちの御剣も正道こそが我が道って感じだし、白銀は白銀で道を踏み外すことに怖じ気づくでしょうから、まあ、まりものいう通りかもしれないわね」
「ほら、やっぱり―――」
「でもね。いつの時代だって、権力者の夢と人倫とはかみ合わないものよ。そうね、こんなのはどうかしら。人倫とは権力者の増長を阻むために組み込まれた、人類という種としての安全装置だ、とか。ま、それは置いておくとしても、組織の頂点に立つ者と、その取り巻きと、末端とでは意思が異なるのは当たり前。結社じゃなくて組織なんだから、個々人の目的すら異なるに決まっている。そんな状況の中、白銀が死ぬことで自分の持つ利権が失われることを極度に恐れる人間がいないと、まりも、あんたいいきれる?」
「で、でも……」
「なに? 反論があるなら聞くわよ?」
「…………」

 黙り込むまりも。目が泳ぎ、そこらに都合のいい回答が落ちていないかと探しているような仕草。

「あの……」

 生まれた静寂を破ったのは、ここまで黙って話を聞いていた男であった。
 何かを期待するようなまりもの視線に怯み、余計なことをいうなといいたげな夕呼の眼光は見なかったことにして、彼はいう。

「オレがクローンだってことは、納得できないにしても、理解はしました。でも、オレが彼女―――まりもさん、でいいんですかね?―――と一緒に住む必然性が見えてこないんですが……」
「そ、そうよ。彼の出自と私の家に住むこととは関係ないじゃない」

 男の言に追従するまりも。
 圧倒的に現実感を伴わない話を浴びせられ、危うく最初の議題を忘れかけていた。自分一人であれば押し切られていたかもしれない。しかし、自分一人であればそもそも問題が発生しなかったことを考えると、感謝するというのも変な話だ。

「あんたたちねぇ……。飾りじゃないんだから、もうちょっとその頭の中に入ってるものを使いなさい。そのうち腐るわよ? 特にあんた、白銀モドキは一つ大きな情報を持ってるんだから、ちょっと頭働かせたらそんな質問は出ないはずなんだけど」
「……大きな?」

 首を傾げたのはまりもか男か。
 しばし与えられた猶予を使い、男は首をひねり考え続けたが、夕呼が痺れを切らすのが先だった。

「あんた、本当に生き延びる気あるの? 車の中で教えたわよね? 捕まったら殺されるって」
「ちょっと―――それ、どういう」

 唐突に現れた物騒極まりない単語に、まりもがぎょっとして尋ねる。
 が、夕呼はそれには応えず、

「あたしが御剣の研究に少なからず関わっていることはさっき話した。さらにいうなら、あんたのオリジナルである白銀武―――御剣武……ああもう、紛らわしい! 白銀武でいいわ―――はあたしの元生徒であることも教えている。これだけの知識があるなら、あたしが密告屋として御剣の手足にされることぐらい気づきなさいよ」
「つまり、ここでの会話はなかったことにしてくれるってことですか? それに、香月さんは密告屋として期待されると同時に、……監視もされる?」
「そういうこと。ようやく回転してきたじゃない。ま、だからあたしが住居を用意したらすぐにバレちゃうだろうし、ここは一つまりもに任せるのがいいかと思って紹介してみたんだけど。どう?」
「どう、って……」

 そんなに軽く尋ねられても困る。
 置いてけぼりだというのに被害者としては最も中心に位置するであろうまりもは既に涙目だ。
 たった十分、二十分まえの、今年の年末はいままでになく熱いものになるかもしれないという仄かな期待に胸を膨らませていた自分は、もういない。それどころか、想像以上に重たい事態が平穏な日常の中に飛び込んできた。
 目の前の、教え子によく似た彼は、御剣の追手に捕まれば殺されてしまうという。
 逃げだした以上は影武者としては失敗作だ、とか。
 人道に唾を吐きかけるような行為は隠蔽せねばならない、とか。
 そういうことなのだろう。
 たしかに、目の前にいる彼が殺されてしまうのをみすみす見逃したくはない。人が死ぬということそれ自体も見逃せないが、それ以上に、その人物が自身の知る人そっくりだということが、まりもの良心を刺激してやまない。
 だが、しかし―――

「でも、それなら私が別の部屋を用意するのだっていいわけだし―――」
「あたしの唯一の親友が、使いもしない部屋を何の脈絡もなしに取ってみなさい。すぐにお縄につくわよ。厄介払いしたいなら、そんな回りくどいことせずにいまここでいえばいいじゃない。あ、ちなみに御剣たちに直接連絡入れるのはダメよ? 処罰を受ける前に証拠を強引に消しに来る人間がいないとも限らないから」

 こうして奇妙な共同生活が始まった。



「あ、でも彼のことはなんて呼べばいいのかしら」
「別に白銀モドキでもG−11でもBETAでもいいんじゃない?」
「なによそれ。もう人の名前ですらないじゃない……」
「じゃあデイヴィットとでも呼べばいいわ」

 こうして彼はデイヴィットになった。





■ん

「あとのことは若い二人に任せるわ〜」

 そんなことをいい残して、夕呼はまりもの自宅を去った。が、手をひらひら振る後ろ姿を責めるわけにもいかなかった。彼女は、御剣姉妹への安全な報告はどうにかして自分が成功させて見せるから、それまでどうにか持ちこたえてくれ、とも口にしたのだ。大抵のことは外側からつついて楽しむ人格ではあるが、今回はことがことなだけに、どうやら積極的な協力姿勢を取るつもりらしい。
 しかし残されたまりもとデイヴィットにしてみればたまったものではない。
 出会ったばかりの男女がこれから寝食をともにしなければならないという状況が、二人きりになったことで、ようやく現実感を伴い始めたのだ。
 問題は多い。
 むしろ問題のない部分を探す方が難しい。
 しんと静まり返った、しかし完全に無音ではない部屋の中、二人は互いを窺うように意識し合っていた。

「あの―――」
「あの―――」

 第一声を重ねあうベタベタな展開に再び黙り込む。
 屋外から車の走行音が届き、やがて消えていった。
 そして、くう、とお腹が鳴った。
 まりもは真っ赤になった。





「なるほど。その白銀武ってやつはとんでもない生徒だったんですね」

 そんな台詞が『その白銀武ってやつ』と同じ顔を持つ人物から出たことに、なんとも形容しがたい感覚を抱きつつ、

「でも白銀君がいたときが、ここ数年で一番賑やかだったわ。夕呼もなんだかんだいって、彼のことはちゃんと認めていたみたいだし」
「みたいだし、神宮司さんも気に入っていた、と」

 デイヴィットが言葉を引き継いだ。
 まりもは『神宮司さん』と呼ばれるくすぐったさを大きく上回る驚きを得て、彼の顔を見る。
 目の前にはやはり話題の人と同じ顔があり、しかし態度にはどこか余裕が満ちているように思われる。まりもの記憶には該当するものがない表情であった。
 別人だと理解はしているけれども、自分の受け持っていた生徒が随分と大人びて戻ってきたように感じられ、まりもの中に感慨や懐古の念といったものが湧きあがる。
 喪失はまぎれもなく成長の一側面である。しかし、自分の手から離れていった生徒が、失ったものの代わりになにか大切な、得難いものを手に入れたならば、それは教師にとってなにより大きな喜びだ。いま正面にいる彼は、まりもにその可能性を見せてくれる存在であった。
 二人は食卓を挟んで向かい合っている。
 最初こそぎこちなかったが、まりもが手早く準備した昼食を二人で食べながら話しているうちに、漂っていた気まずさは影を潜めていた。
 二人のやり取りは、まりもが話し、デイヴィットが聞き、あるいは尋ねるという形式を基本とする。デイヴィットにはそもそも提供できる話題が存在しなかったため、それは必然だ。一方、まりもはまりもで普段から聞き役に回ることが多いのだが、だからこそ話す側に回ったとき、自分が思いのほか語ることを楽しんでいると気がついた。饒舌というほどではないにしても、普段より口数が多いことは明白で、この昼食の席には普段は見ることのできない神宮司まりもが存在する。

「そういえば、いまでも職員室で話題になることがあるわね。その度に、当時の担任として私も話を求められるんだけど」

 あまり公とはいえない事実だが、近年、卒業生からの寄付という形で柊学園の施設が次々と整っている。そのため、プール施設が話題になれば特定の卒業生二人の名が上がるように、新しくなった施設が話題になれば御剣の名が上がるのだ。
 死人を悪くはいえない、というのとはまた別なのだろうが、在学中の彼らを苦々しく思っていたはずの教員までも、いまでは懐かしげに語ることがある。それを聞いて、調子がいいとは思わないが、どこか自分の教え子を取られたような気持ちにならないといえば嘘になる。
 時に静かに、時に相槌を打ち話を聞くデイヴィットを前に、まりもは自覚なく長々と語り続けていた。まるで古く親しい友人に愚痴を聞かせるように、いつの間にか遠慮も薄れている。おかげで、一人でいるときよりも随分と昼食に時間をかけることになった。
 当初思っていたよりも遥かに穏やかな昼が過ぎ、さて、そろそろ真剣に話をしようか、という雰囲気が生まれたのは、あるいは再び訪れた沈黙を回避するためだったのかもしれない。ならばこれまでの和やかな談笑は現実逃避の類か。
 再び机を挟み向かい合い、デイヴィットはまりもにいう。

「現実的に考えて、そんなに長くお世話になるわけにはいきません。いまさらですが迷惑をかけることになりますし、それ以前に無理のある生活は必ず早い段階で破綻するはずです。香月さんがどの程度の時間で御剣の本家にごく内密に連絡を取れるかに関わらず、オレは数日でここを去るようにします」

 ですから、それまではどうかよろしくお願いします。デイヴィットはそういって、改めて礼儀正しく頭を下げた。
 この場を去るまえ、安全を確保できるまでにどれほどの時間がかかるか定かでないと夕呼は告げ、それまではデイヴィットの世話をするようにまりもに伝えていた。そしてまりもは、勢いに押し切られるようにして了承したのだ。どうやらデイヴィットは、そのことについて相当申し訳なく思っているらしい。

「数日で去るって……なにかあてはあるの?」
「いえ、ありません」

 わかりきった答えに、しかしデイヴィットはこう続けた。

「けど、どうやら先立つものは持っていたみたいで―――」

 ポケットから取り出されたのは、これまた衣類と同じく品のいい革財布だった。デイヴィットはそれを開いてみせる。
 促されて中を覗き込んだまりもは、普通は財布に入れないであろう紙幣の量に目を丸くした。

「やっぱりというべきなのか、個人情報に関わるものが不自然なまでに見当たらないんですけど。お金の方は、影武者にも見せ金は持たせておいたってことですか。それで、とりあえずお世話になる間は神宮司さんにこれを預けておこうと思います。面倒をかける代わりにお金を……って感じがして嫌なんですけど、だからといって無視できる問題じゃありませんし」

 デイヴィットは真摯な表情で、まりもがするであろう返事を先回りして潰しにきた。
 理不尽ではないが、強引な様は夕呼に似たところがあるのかもしれない。揺らがぬ視線をじっと向けられれば、まりもがそう思うのも無理はない。
 またもや押し切られる形で財布を受け取ることになった。決して手をつけまいと密かに心に決めつつ、まりもは手にしたそれを視界から追い出すように机の端へと寄せた。
 向かい合うデイヴィットの目が、まりもの手の動きを追って横へとずれる。
 ほんの数時間で自分の知らない『白銀武』の顔を幾度と見せられ、その度にどきりとしていたまりもであるから、真剣な目が自分からそれたことに内心ほっとしていた。それはもしかすると、かつての自分が一人の生徒を相応以上に意識していたと自覚するを無意識で避けたのかもしれない。
 しかし無意識とは意識できないからこその無意識であり、そのためまりもは、これから訪れる波瀾とその中で生まれた自分の気持ちに大いに戸惑うことになる。





■は

 年末年始は忙しい。
 日本国内ですらクリスマスは一つの大きなイベントとして認知されている。海外との付き合いがあれば、その重要度はなおさら高い。年末から年始にかけての祝いの席に出るのも、御剣に名を連ねる者であるならば、これは一つの義務であるといえる。
 出席する者ですら、準備に忙しいのだ。ならば行事の準備を主たる仕事とする者の忙しさは如何ほどのものか。
 御剣は当然ながら、もう何年間もあらゆる行事に伴う集まりを開催する側としての立場にある。ゆえに関係者たちの日々は、寝る間も惜しんで駆けまわらねばならない域に達するのが常となる。それらのことを考慮しても、今年は例年の慌ただしさを遥かに超える大騒動となっていた。
 原因はただ一つ。
 昨今御剣の中枢に名を連ねた一人の青年が姿を消したのだ。
 彼の失踪は、当初、いつものように突発的な脱走、すなわち息抜きだと解釈されていた。その分析結果はいまも変わっていない。彼がクリスマスパーティーに出席する準備を前日までにしっかり終わらせていたことが大きな根拠の一つ。他にも挙げようと思えばいくらでも挙げられる。これらにより、少なくとも計画的な脱走ではないとの見方が主流となっている。
 誰もが、すぐに連れ戻されるだろうと、あるいは帰ってくるだろうと予想した。
 しかし彼は24時間経った今、未だに帰還を果たさずにいる。
 彼に御剣への不満はなかった。平穏な日常を含むなにもかもを振り切って今を選んだ男である。不満などあろうはずもない。
 出先で何らかのトラブルに巻き込まれたとしか思えない事態。しかも彼自身が連絡できず、かといって誰かから何らかの要求や連絡が来ることもない。
 突発的な事故の可能性が高かった。それも、極めて危険な状況にあると思われる。雪の季節、屋外で身動きが取れない状況で夜を越したとなれば、命に関わる可能性は決して非現実的なものではない。
 これは捜索部隊にしても護衛部隊にしても近年稀に見る大失態に違いない。
 一番悔やんだのは、彼の失踪当時に傍らに仕えていた、そして捜索初期の指揮を執った月詠真那だった。
 彼女を含めた全員が、あれほどまでに簡単な手であっさりと出し抜かれ、結果、彼はトラックで輸送されていった。行先は荷物の集配拠点。一度集められた荷物は、そこから全国へ、そして全世界へと散らばっていく。ちなみに武が入った段ボールは宛先が『ヨーロッパの方』とだけ書かれていた。なぜそれがわかるかといえば簡単で、脱皮した蛇の抜け殻みたいな段ボール箱が集配センターから回収されているのだ。彼はおそらく、さらに別の段ボール箱に入りどこかへ運ばれていったのだろう。すなわち、集配センターから続くどの地にでもたどり着ける。御剣の手がどれほど長かろうが、目がどれほどよかろうが、日本全土、さらに世界中を隈なく探しつくすには莫大な時間がかかる。武が一刻を争う事態にあると想像される以上、それは文字通りに致命的なことだった。

「月詠。そなたが自分を責める必要はない。問題があったとすれば第一にタケル自身に、第二にタケルの脱走癖を常日頃から敢えて見逃していた私にある」
「そうですよ、真那さん。冥夜のいうとおり、問題があったとするならば、それは武様と私にこそ」
「……姉上」
「なんです、冥夜?」

 にこにこ。
 姉の強さを見せつける悠陽を前に、冥夜はなんともいえない顔をした。

「…………いえ。いまは敢えてなにも。ですがタケルが無事に戻って来た暁には、是非とも姉上と真剣な話をするために一つ席を設けたいと」

 視線の交差。
 途端、すぅ、と音が空気に染み込んでいった。
 静かなる間がどれほど続いたのか。

「―――いいでしょう。曖昧な関係はそろそろ終わりにするべきであると、私も思っておりました。武様がお帰りになられた折には」
「どちらがタケルを御剣に招くに相応しい者であるかを」
「「決めましょう」」





 宿命のライバル同士が拳を突きつけ合うような、あるいは己こそが最強であると刀を向け合う武者のような、まさに真剣そのものの場面。
 その隣では、真那が雰囲気をまったくもって無視して電話で連絡を受けていた。

「―――それは本当ですか!?」

 キレたとき以外は決して大声を出さない真那であったから、上がったその声を耳にした双子の姉妹は争いを忘れ、侍女へと視線を向けた。
 このタイミングでよもや人類に敵対的な地球外起源種が地球を侵略しにきたなどという連絡は入るまい。

「それはどこで……柊町? ―――いえ、失礼いたしました。香月様から連絡をいただいた時点で、たしかに柊町の可能性を考えるべきでした。それで、そのとき武様のご様子は?」

 少女らの期待を裏切ることなく、それは武の発見の報であった。

「はい、……ええ、はい、そうでしたか。武様には特に変わった様子はなかった、と。わかりました。ご連絡ありがとうございます。また後ほど、改めてお礼に伺いますので。はい。それではこれで失礼いたします」



モドル