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 これはニートを目指す少女と、それを阻止せんとする両親とが繰り広げる壮大な『あいとゆうきのおとぎばなし』である。

 嘘である。



 現在、BETA大戦が終結してから数年がたった。などと数字を明言せずにいると、学どころか常識のない人を見るような目で見られてしまう気がするので、わたし自身の過去も交えてちょっとだけ詳しく語ってみようかと思う。
 地球上からBETAの脅威が完全に駆逐されたのは、いまから十年前のことである。といっても、それは教科書の中の知識。
 なにせ当時のわたしはまだ五歳。たまにしか家に帰ってこられない父さんに頬をぷにぷにつつかれて、パパと結婚しゆー、とかのたまいながら阿呆面を惜しげもなく晒していたくらいだ。
 だが、なにが起きたかわからずとも、なにか起きたということくらいはわかっていた。いまになって振り返ればそう思う。
 というのも、父さんが家にいるときの、周囲の人々の様子が明らかにおかしかったからだ。
 皆が皆、父さんを拝む。たとえるならば、町内で『野良猫さま』と崇め奉られる、名前の通り野良な猫と同じ程度には。
 当時のわたしが抱いていた父さんへの認識は、母さんやわたしにはとことん弱くて、ちょっと抜けたところがあって、見上げるほどに背が高くて、グンジンというよくわからないけれど戦うお仕事をしていて―――というように、我がことながらあまりにもいい加減なものであったのだ。だから、ご近所に住む老人の方々がこれでもかと父さんに感謝の言葉を向ける光景は、随分と不思議に思えてならなかった。
 さて、ここで種明かし……にもならない事情説明を行えば、地球と月のハイヴを最も多く潰したのが父さんであったというオチになる。

 ―――Q.ハイヴとはなんぞや。

 この問に簡潔に答えれば、こうだ。

 ―――A.宇宙人の巣穴である。

 宇宙人。正式名称は、人類に敵対的な……敵対的な……えっと、略してBETA。
 そう。件の宇宙人は人類に敵対的なのであった。
 BETAは過去に地球侵略を目論んだだけでなく、危うく成し遂げかけてしまったという、まことに物騒な連中だ。現在は火星にのみ存在が確認されているらしいが、わたしが生まれる五年ほど前までは、人類滅亡まで秒読み段階であったというから、本当に危ないところから巻き返したのだろう。
 しかし、十億単位で数える世界人口の六割以上が死亡したと聞かされても、そこに実感やら危機感やらを覚えろという方が無理な相談だ。わたしは物心がついた頃には、BETAの脅威を身近に感じることのない環境ができあがっていた世代。それこそ空の向こうの、未だBETAが蠢くという赤い星を掴むような話である。だからお年を召した方々がいまでも、いや、いまは昔以上に父さんを褒め称えるという感覚には、まったくというほどではないにしても、すずめの涙ほどしか共感できないのだった。
 共感できないのなら共感できないなりに、理解しようと頑張ったこともある。たとえば、ちょうどいま手元にあるコンピュータのキーボードをカタカタと叩き、検索サイトで『白銀武』という文字を入力。次いで検索ボタンをクリックすれば、BETAのごとく(この比喩は絶対に口に出さないことにしている)出るわ出るわ数多のサイト、太文字で強調された『白銀武』。
 ためしに一番上のリンクをたどってみる。
 まるで歩き慣れた散歩道のように、何度も何度も目を通したサイト。
 そこにはわたしの父さんではなく、国連軍所属の白銀武准将についての情報が連なっている。軍が発表した経歴やら、そこから読み取れる人間関係やら、行きつけの定食屋やら。

「む……?」

 不覚。定食屋に関してのものは、以前見たときにはなかったものだ。誰でも情報を書き込み、あるいは修正できるという利点を生かしたこの手の百科事典的なサイトは、ゆえに無責任な誤情報も少なくない。が、今回加筆されたものはどうやら事実っぽい。
 どこの誰が嗅ぎつけたのか知らないけれど、おばちゃんに迷惑がかからなければいい、なんて考えながら修正修正。
 あっという間に文章は元通り。ちょっとしたおまけとして、公開されている顔写真にひげを描き足しておく。なお、これが原因でしばらく編集合戦が勃発するのだが、それはまた別の話。
 閑話休題。
 そもそも、なぜわたしがこんな昔語りから父親への複雑な心境までを語ったのか。
 それは、本日の本題に関係している。
 机の上に、白い紙きれが一枚ある。
 そこにはこう書かれていた。

 『進路調査』

 まだ桜の季節だというのに、三年生に進級したとたんにこれである。
 担任の教諭曰く、まだそれほど焦る必要はない。
 だったらなぜこんなものを配るのか―――わたしみたいな人間の意識を進路へと向けるために決まっている。
 紙切れに目を通せば、そこには第一から第三までの希望を書く欄がある。

「うーん、困った……」

 選択肢はそれほど多くない。
 大きな枝分かれは、就職か進学か。さらに枝先が細かく分かれ、就職あるいは進学するなら、どの方面に進むのか。
 士官学校とか軍の訓練校とか、そういった軍隊関係は絶対に嫌だ。
 徴兵の基準が緩くなったこのご時世、国家と軍隊が等号でつながりかねなかった頃とは違い、BETA大戦終結を受けての軍縮の影響もあって、軍人という辛く厳しい自虐的な選択肢を手に取る女性はそれほど多くない。
 そんな流れに乗るという意味もあるが、それ以上に大きな理由がわたしにはあるのだ。

 理由―――父さんだ。

 一般の学校に通っていても、あらまあ白銀准将のご息女よきゃーきゃー、という展開になる。軍関係に身を進めれば、周囲の視線が気になって胃に穴が開いてしまうかもしれない。
 もちろん「貴様らはウジムシにも劣る。クソにたかるゴミクズどもには平等に価値がないのだ!」ということを素でやるらしい訓練校のことだ、わたしが誰であったとしても、容赦なく笑ったり泣いたりできなくしてくれることだろう。
 それはいい。
 いや、全然よくないけれども、いいということにする。
 問題なのは、人づきあいである。
 日常生活の中で苦労するのは、もう嫌なのだ。
 自分ではまったく関与しえない、責任のないところで発生した面倒が礫となって飛んでくるのは辛い。
 父さんの娘ではなく、BETA大戦の英雄の娘としてしか扱われないのは、とても惨めな気持ちになる。
 友人の家に遊びに行って、そこのご両親やご老人にお礼をいわれるなんて、冗談でも笑えない。
 早くも人生に疲れた十五歳の春であった。
 そういうわけで、わたしは第一志望にこう書いた。

 『自宅防衛軍』

 つき合いがなければ、つき合いで苦労しない。一度死ねば二度と死なない、といった類の頭が痛くなる理論であるが、事実でもある。
 ところで自宅防衛軍には、入隊するために必須の項目が二つほどある。
 一つ、自宅防衛という労働に対する報酬を払うことのできる雇用者が存在すること。
 一つ、この時代にせよそうでないにせよ認められ難い自宅防衛軍への理解ある両親あるいは保護者が存在すること。
 これらを検討する必要がある。
 まずは雇用者。
 父さんは国連軍の将官だ。素面で閣下とか呼ばれ、国連軍の宣伝塔も兼ねているとくれば、お給料もかなりいいものを貰っている。少なくとも、そういう話を風の噂に聞いたことがある。この時代にしては珍しくも幸運なことに、かじる脛は大きいといえよう。よって一つ目の条件は満たしている。
 次に理解。
 父さんの説得は、パパリン閣下と結婚するから専業主婦になる、とかいえばたぶん大丈夫だろう。しかし、すべてがうまくいくようには出来ていないのがこの世界なのか、そこらの岩よりよほど堅く、そこらの山よりよほど高い壁がそびえ立っていることを、わたしは嫌になるほど熟知していた。
 白銀家のラスボス。
 いい年してウサミミをピコピコさせている母。
 父さんと並べばどこか犯罪の臭いがするロリーな母さん。 
 父を容易く攻略するわたしの外見が、最大の障壁からそのまま引き継いだものであるというのは皮肉なことだ。しかも母の方は頭の中身の仕様も非常に優れており、初対面の人はまず信じないのだが、割と名のある学者先生でもある。
 正直、なにをやっても勝てる気がしない。
 現に、いまもこうして計ったかのような神懸ったタイミングで、風呂に入っていたはずの母が部屋の扉をノックする音。

「話があります」

 なにについての話かはいうまでもないだろう。そんな感じの口調。

「バルジャーノンやろうと思ってたのに……」

 どうやらニートまでの道のりは長く険しいようである。



 やや唐突だが、白銀霞はいわゆる超能力者である。
 1973年のBETA地球襲来をきっかけに始まったオルタネイティヴ第三計画の要にして、その誕生には祝福ではなく役割のみが与えられた、第六世代目に当たる人工ESP。生きるためではなく、一から十まで計画のために生まれてきた生命。ゆえに彼女の命は彼女のものではなかった。
 当然、自身の思い出といったものなど存在しえなかった。
 そんな彼女は、多くの姉妹が散っていった後、オルタネイティヴ3の終了と共に、オルタネイティヴ4に身柄を移すことになる。
 対BETA諜報員育成計画である第四計画は、他のオルタネイティヴ計画と同様、決してその存在が表に出ることなく進められた。当時まだ社霞だった幼い少女の存在も、歩く機密の塊として、決して公にされることはない。
 やはり彼女には、思い出を得る機会はやってこなかった。
 霞にとっての大きな転機は、1999年に決行された明星作戦で、脳髄だけの状態でBETAの捕虜になっていた人物が発見されたことにより訪れる。ESP能力を用いた交信による、唯一生存していたその捕虜の名前の判明。その過程で、霞は捕虜――鑑純夏の思い出を共有することになったのだ。
 その思い出の中には、とある少年が多く姿を見せた。否、多くなどという言葉では到底届かぬほどに、埋め尽くされていた。
 少年は鑑純夏のすべてだった。
 ならば、鑑純夏に自身を投影していた霞が少年を思うようになるのは自然な流れで。
 社霞は、きっと出会う前から白銀武に恋をしていたのだろう。
 それからさらに時は流れ、やがて彼はこの世界にやってくる。
 そして、様々な物と引き換えについには人類の未来に一筋の光をもたらした一人の英雄は、結局、自分の世界に戻ることはなかった。
 現在とは、その過去に連なる未来のことであり―――

「…………」

 なにやら邪な色に塗られた意思が流れ込んでくる。ニートとか見えたような見えなかったような気がした。
 ESP能力――リーディング。決して望むものだけ見えるわけではない。
 人為的に能力の発現を阻止する装置も存在するが、入浴中は取り外している。
 天井から冷たい水滴が降って、鼻先に着弾した。
 霞は思わず瞬きしてから、ゆるりと背をもたれかけ、今度は浅く目を閉じる。
 どうやら娘はここのところ、何某かに心を悩ませているらしい。そしてそれは、恐らく将来についてだ。そのくらいはリーディングがなくともわかる。
 わがままに育った娘である。
 霞はともかく、武は娘にわがままを許した。いわく「オレたちは、子供がわがままの一つもいえる時代を作るために戦ってきたんだ」とのことで、彼は娘に限らず若い世代に恐ろしく甘い。代わりに、自分と同じく軍に身を置く人間には恐ろしく厳しい。これは彼に限らずある程度年を経た軍人、あるいは退役した元軍人、要するにBETAと戦闘経験のある人間によく見られる傾向の一つである。
 娘が懊悩する日々を送ることを武が知ったなら、大いに悩めと優しく笑いながらいうだろう。彼が若い頃には、若者には悩む自由すら与えられなかったのだから。
 世界は豊かになった。
 身近なレベルでいえば、娘のわがままに始まり、食料、物資、エネルギー、あらゆる生活必需品の供給量に加え、嗜好品の類や娯楽までが現在進行形で発達している。いまこうして時間を気にせず風呂に入っていられるのも、軍属の家族の死に涙を流す人が減ったのも、そして悲しい事実ではあるが人間同士の争いが増えたのも、すべて豊かさの象徴だ。
 もちろん、霞はその幸せを否定したりはしない。自身もこの平和な世界の礎となる覚悟をした一人であり、人類のために命を差し出した多くの高潔を目の前に見てきたのだから、否定できようはずもない。
 だけれども、それでもときどき―――思うのだ。
 本当にいいのだろうか、と。
 娘は知らない。自分の父がどれほどの思いで歯を食いしばって戦い続けたのかを。
 平和の中に生まれてきた世代は知らない。どれだけの人々が心の底から生きたいと願ったのかを。
 これから生まれてくる人々は、先人の決死の覚悟ではなく、人生を楽しむ術を学び知っていくだろう。
 それがとても残念でならない。

 ―――生きるのならば、どうか必死に生きて、そして幸せになってほしい。

 霞が娘に望む、ただ一つのことである。

「少し、あの子と話をしてみます」

 霞は小さく呟いた。その言葉は誰に告げるものであったのか。声は響き拡散し、湯気に溶けて消えた。
 どうやら軽くのぼせたようだ。頭が重たい。それに、娘からますます怠惰な気配がゆんゆん飛んでくる。
 あの子は少々迂闊すぎる。飴と鞭でたとえるのならば、鞭の方が近いところにいるというのに。
 そろそろ湯から上がるとしよう。



 基地司令の仕事は多岐に渡るが、正直に告白をすれば、規模が一番大きな雑用係である。それが、いまや国連軍が保有する月面基地の司令の椅子に収まってしまった白銀武の意見だ。
 階級は准将。
 一衛士からの出世にしては出来すぎなくらいだが、自他共に認めるだけの功績を、多くの部下や仲間たちの挺身により上げているのも確かである。
 多くの英霊を背負っての地位であるからこそ、謙ることは絶対してはいけない。そんな失礼は絶対にできない。いまの武にとって、自分の功績を誇ることは、逝った仲間たちを誇らしく語るということだ。
 思えば、そんな流儀を教えられたのも随分と昔のことになる。
 武が一少尉だった時代を思い出そうとすると、もう二十年以上を遡らなければならない。
 人類史上最大のBETAへの逆襲にして、勝利への第一歩である桜花作戦。彼の作戦の成功により、秘密裏に準備が進められていたオルタネイティヴ5は阻止され、逆にオルタネイティヴ4の中核たる香月夕呼博士は、比肩しうる者がないほどの発言力を手に入れた。しかしその時点で直属の特殊部隊員のほとんどを失っていた彼女は、更なるBETAへの追撃をかけるため、手駒の補充を図る。どういうわけかこの世界に残ることとなった武は、その部隊に組み込まれ、世界中のハイヴを狙い撃ちするがごとく、各地の軍に協力という形で極東国連軍から派遣されることになった。
 元より頭抜けて腕のいい衛士である。突撃前衛を率いてみるみる戦果を上げる内に階級も上がる。
 時間の流れとともに新OS、XM3も広まり、地球上のハイヴが姿を消していた頃には階級も上がり、大きな精鋭部隊を率いていた。霞との間に子が生まれたのは、その五年ほど前のことである。
 ぶっちゃけできちゃった婚で、当時、夕呼に散々冷やかされたことを武はいまでもよく覚えている。それに対する仕返しではないが、子供の名付け親になってくれと霞と共に頼み込み、とんでもない名前を付けられそうになって冷や汗かいて撤退したことは、もっとよく覚えている。 
 そんな夕呼も、いまでは武の部下だ。
 副司令にいびられる司令というのも珍しい気がするが、とにかく上司部下の関係が逆転したのである。もちろん形の上では、なのだけれども。
 気づけば香月派あるいは白銀派などと呼ばれる人間の筆頭になっていた武だが、戦術機を率いてBETAを駆逐していたのが夕呼に命じられた雑用であるならば、月を取り戻してからの主な仕事、すなわち各所と交渉して環境を整えることも、夕呼の研究のための雑用なのだ。
 歳をとって戦術機から降りはした。しかし、やることは何も変わっていないのが現状だ。
 たぶん。
 武は思う。
 一生、いや、下手をすると死んでも夕呼先生には頭が上がらないだろう。
 夕呼はもう五十路も近いはず(基地司令の武でさえ閲覧が許されない機密情報なので、詳細な年齢は知らない)なのだが、頭は切れに切れ、いまでも背筋が凍るような天才っぷりを発揮している。いや、武が成長して彼女の恐ろしさを昔日よりも理解できるようになったせいで、背筋が凍るどころではない。
 雲を抜けてようやく山頂が見えると思ったら、実はバーナード星系のあたりまで伸びていたようなもので、出てきた感想は恥ずかしながら昔と同じ。

「すげぇよ、夕呼先生……」

 思わずこぼれる若かりし日の口調に、

「当ったり前よ。アンタにあれだけお膳立てされといて、失敗しました、なんてことになったら目も当てられないわ」

 在りし日と変わらぬ不敵な笑みを返す白衣の女帝。
 人類が数世代以内に太陽系からBETAを排除することは不可能。そう結論した夕呼は、しかしそこで足を止めることを好しとはしなかった。
 遥か未来の人間が、一抹の不安すら抱えることなく過ごせる世界を作るための足がかりを、彼女は作ろうとしている。ほとんどの人間が、地球と月を取り戻して安堵しきっているという状況の中で。
 かつてもそうだった。
 皆が地球上からBETAを排除することだけに全身全霊を注ぎ込んでいた時代の末期、人類の生みだした希代の天才は既に月の奪還をも視野に入れていた。あるいは火星奪還への足がかり、すなわちこの状況すらも想定内だったのかもしれない。
 その頃から変わらず、学者の戦いに武が協力できることはとても少なく、範囲は狭い。
 それでも、できることを全力で行う姿勢だけは変えようと思わない。

 ―――死力を尽くして任務にあたれ。
 ―――生ある限り最善を尽くせ。
 ―――決して犬死にするな。

 それはおそらく生涯に渡って心を律する言葉。
 武と夕呼は、未だ戦争の最中にいる。
 香月派―――それは、平和な世界にあってBETA大戦を続ける人間たちの総称である。武のシンパには特に衛士、元衛士が多いため、最前線で戦いすぎてBETAの恐怖が抜けなくなった古い連中だといわれることもある。
 その通りだ。かつての地獄を夢に見て飛び起きることが、いまでもある。
 だから、いつかBETAの恐怖を知らない人々が危機に瀕したときのために、いまできることは全てやっておく。後の人類がいらないと判断すれば、残された成果ごと捨てればいい。

「ん……やっぱりソビエトが渋ってますか」

 提出された資料に目を通しながら、武が呟く。
 対する夕呼は、見ればわかることを確認する問への返事は馬鹿のすることだといわんばかりにコーヒーを啜る。芳しい本物のコーヒーを存分に堪能できるというのも、地球を取り戻してよかったことの一つだ。

「そういえば」

 読み終えた資料から目を離し、武。

「ソビエトといえば、このまえ家に帰ったときに霞が謎のソビエト式対BETA拳法――ええと、暗黒ウサミミ拳だったか?――の構えをとってたんですけど、あれ、先生の差し金ですかね?」

 武は褐色の香ばしい霧に顔面を強襲された。
 苦しげに咳きこんだ夕呼は、呼吸を整えてから武を睨んだ。しかし顔を拭いている武は気づかなかった。

「はぁ……」

 夕呼は疲れたように溜息をつき、

「そんなわけないでしょ。いってたわよ、近所のおばあさんから大陸の拳法をどうとかって。健康体操だそうよ」
「あれ? オレが聞いたときは、大戦中にソビエトが研究していた、生身でBETAと戦うための拳法が流出したって」
「アンタ、それ誰に聞いたの?」

 目の前でつなぎを脱ぎだすいい男を見た普通の男の子のように、武はハッとした。
 夕呼は、それはもう嬉しそうにニヤニヤ笑っている。

「なかなかいいクソガキに育ってるじゃない」
「そんなに褒めないでください」

 間髪入れない切り返しに、夕呼は試すように問う。

「あら、なんで褒めてるってわかったのよ?」
「今年中学三年に進級したんですが、オレと違って学年主席ですよ」
「褒めたのはあの子じゃなくてアンタなんだけどねえ」
「きっと霞に似たんです。それにバルジャーノンが上手いのは、きっとオレに似たんですね。将来が楽しみだ」

 ついに子を持たない人間には通じない不思議な言語を使って喋りだした武に、夕呼は肩をすくめた。それからもう一度、勝手に武の執務室に置いてある自分のコーヒーを淹れなおす。
 カップを傾ける。
 夕呼は黒い水面に映った自分の顔を見て、歳をとったものだ、と密かに笑った。
 結局、どんなクソガキだろうと、夕呼にとっても娘―――孫のようなものなのだ。証拠に、十五年ほど前あたりから、武の喋る謎の言語が解析できつつある。
 どういうわけか、可愛くて仕方がないのは自分も同じらしい。

 二人が娘/孫のニート願望を知るのは、まだ少し先の話である。




モドル