ロリ☆夕呼(偽)Unlimited


■プロローグ
 人類の黄昏。現状をそのように表現する者がいる。しかしそれは幻想の中に生きる人間の言だ。武はそう思った。
 詩的な表現を馬鹿にしているわけではない。
 未来が絶望的な現状にあってなお詩的な表現をできることを嘲笑うわけでもない。
 ―――黄昏。
 この言葉があまりにも現実に則しておらず、深く苦い笑みを誘ったのだ。
 黄昏など、とうの昔に過ぎ去った。振り返っても、もう豆粒ほどにも見えないくらいに遠い。いまは深夜零時まで秒読みの段階といったところだろう。
 そもそも武が振り返ったところで、そこに黄昏があったかどうか。
 白銀武がこの世界に現れたのは唐突だった。その頃の話をするには十年以上もさかのぼらなければならない。そのときには既に人類の黄昏は過去のものになっていたような気もする。だから武は人類の黄昏というものを目にしていないのかもしれない。つまり負けが決まってから現れたということだ。とんだ貧乏くじである。しかも過去を振り返ったとして、そこにいるのは無知で無力なクソガキだ。そいつは自分が負けの決まった消化試合に投入されることなど知りもせず、ただただ戦術機という玩具に目を輝かせていた。できることなら、あの頃の自分を殴り飛ばしてやりたい。
 思考は泥水のように濁っていた。
 心は体の一部なのだ。そのことを、武は最近になってようやく知った。戦い終え疲れが纏わりついて重たくなった体は、容易に心までをも暗色に染め上げる。
 三十路を越え、ついに衛士としての成長が止まったのを実感する。そもそも今日まで人類が生存していることが奇蹟なら、今日まで自分が生存している事実を表す言葉を武は知らない。しかし、奇蹟を越えたなにかに後押しされて生き延びてみれば、衛士としての腕は見上げた夜空に輝く星の高みにまで達していた。それどころか、現在生きているの古参の衛士たちは、その実力で十年前のエースを遥かに上回っている。逆にいえば、その域にまで達せなかった者は皆例外なく死んでいる。
 それでも―――武は思う。
 足りない。まったくもって不足している。
 更なる力を求めてやまない心は、これから衰えていくであろう身体を大いに恐れている。これからの戦いは、生き延びるために少しでも腕を上げる戦いから、生き延びるために少しでも衰えを防ぐ戦いへと変化していくというのに、武の心は燃え盛る炎のように、渇いた砂のように、あるいは――――忌まわしいBETAのように、力に飢えているのだ。
 こんなことでは彼女を守れない。
 これ以上失ってたまるものか。
 最後の戦いを前に、大切なものを守りたいという欲求が彼の言動すべての原動力だった。
 訓練兵時代の仲間。新たに知り合った戦友。上官。部下。それらあらゆるものを失って、いよいよ惰性によってしか戦うことができなくなっていた白銀武という男が如何にして心を持ちなおしたのか。
 その過程を以下に記す。


■1
 転落の始まりは、忘れもしない西暦2001年のクリスマス。与えられたのはオルタネイティヴ第四計画の頓挫という地獄のようなプレゼントだった。これにより、オルタネイティヴ第五計画が発動。その内容は五次元効果爆弾、通称G弾の集中投入によるハイヴ殲滅作戦と、他星系移住作戦。
 武がこれを知ったのは後のことだが、第五計画は第四計画として採用されなかった米国による案であった。ゆえに世界を主導する計画の提唱者として米国は立場を得て、またそれまで第四計画を支持してきた帝国は力を削ぎ落されることとなる。
 しかし最も酷い扱いを受けることになったのは、第四計画の発案者にして中心人物であった横浜基地副司令、すなわち香月夕呼博士その人であった。
 香月夕呼には、もはや味方はいなかった。
 他者の弱みを握り相手の戦意を根こそぎ奪うことで争いを避けてきた夕呼だ。失脚と同時に見向きもされなくなるならまだいい。だが彼女は一介の研究者に戻るには知りすぎていた。
 過去のオルタネイティヴ計画に始まり、第四計画の中心たることで知りえた軍事上の機密は数知れない。それを理由に、彼女はここぞとばかりに攻撃を受けることになる。
 行く着く先は研究所という名の牢獄か、はたまた墓場であったのか。
 武が最後に夕呼と顔を合わせたのは、彼女の執務室でのことだった。一訓練兵では、否、それどころか任官した衛士ですら足を踏み込むことあたわない横浜基地の地下深くに、基地副司令の執務室はある。
 部屋の主は泣いた。
 己のすべてをつぎ込んだものが無駄に終わった悔し涙か、それとも人類の終わりが確定したことを悲しんでいたのか。そのような推測すらできず、武は初めて見る大人の、香月夕呼という女性の涙に圧倒されていた。
 恥も外聞もなく人前で、しかもガキであると侮っていたはずの武を前に涙を流すような人ではなかった。それがアルコールに思考を鈍らせ、感情をむき出しにしていたのだ。
 まるで打ち寄せる波濤に飲まれるように、気づけば武は彼女と肌を重ねていた。快楽にではなく、彼女が発する激情に溺れていた。ただそれだけであったことを、武は数年後に後悔することになる。このときが香月夕呼が一人の人間として武の前に姿を見せた最初で最後の機会であったというのに、それを見送ってしまったのだ。
 恩人だった。その彼女が見せた弱さを前になにもできなかったのは、きっと死ぬまで心に残る痛恨事だ。
 誰も知らぬうちに夕呼は基地を去った。そうなって武は、自分たちがどれほど厚い庇護の下にいたのかを思い知ることになる。それは207分隊の仲間たちも同じだったろう。
 間もなく送られた戦場は常に激戦が途切れることない最前線だった。
 これは夕呼の影響下にあった衛士を消し去りたいという某かの意思が働いていないといえば嘘になるが、しかし夕呼の下にいれば決して経験しなかったはずのことでもある。
 本来、夕呼の下を離れ、かつ戦場を経験せずにすんだ者が一人だけいたはずなのだが、その一人は仲間たちと相談し、結局皆で戦い抜くことを決めていた。
 戦場はまるでふるいだ。加えて網の目は時の経過とともに徐々に大きくなっていく。今日を生き延びたからといって、明日を生き延びられるとは限らない。
 衛士たちは実力と運が足りない者から順に数を減らしていった。すると、生き延びた一人の負担は重くなる。これが大きくなる網の目の仕組みであるが、幸いなことに207分隊の衛士たちは一人の脱落者も出ることなく戦場を転々とした。
 そうするうちに階級は上がり、責任は大きくなる。地球に残る命は少なくなる一方なのに、武たちが背負う命は多くなる。
 ちょうど残り少ない衛士たちの実力が高い水準で安定しだした頃だった。
 ついに207分隊から死者が出た。
 ここでその英霊の名を挙げる意味はないだろう。なにせそれを皮切りに武以外の皆が立て続けに命を落とすことになったのだから。順番などあってないようなものだった。
 武に残されたのは、仲間が皆死んだという事実のみ。
 これは単純な話で、力のない衛士が絶滅するかのように淘汰されつくしたことが原因だった。従来以上に生死が運に左右される戦場が出来上がっただけだ。いってしまえば『運が悪かった』の一言で済む。果たして運が悪かったのは武なのか、それとも彼の戦友であったのかは定かでない。
 この時期になれば、武の中からは元来の甘い認識など消えていた。自分の命より大切な仲間たちのために戦うという理由はついになくなったが、仲間が必死に守ろうとした世界のためになら戦えた。それは死を前提としたブレーキなしのチキンレースによく似ていたが、武にはそれでもいいと思えたのだ。
 武は、ときどき風の噂に聞く神宮司元教官の名や、自身が誇らしく語る仲間たちの名前を支えに戦った。戦って、戦って、戦った。もはや戦う理由すら忘れかけ、その姿は戦うためだけに戦っているようにも見えた。それでもよかったのは、しかし最初のうちだけだった。
 G弾が無効化されたのだ。
 BETAが人類の戦術に対応し始めているという分析結果は出ていた。戦場で戦術機を駆る衛士たちは、そのことを肌で感じ取っていた。だというのに、人類はG弾が上げる目覚ましい戦果を盲信し、ついに手痛い反撃を受けることになる。
 どのような皮肉なのか、それは米国までもが持てる力のすべてをつぎ込み、ある意味で初めて人類が一致団結したオリジナルハイヴ攻略戦で起きた。
 それまで、オルタネイティヴ5発動以前と比べれば破竹の勢いでハイヴを殲滅し続けてきた人類であったから、頼りの綱であるG弾の無力化は絶望そのものを意味していた。大黒柱の折れた家は崩れる。まるで映像を逆再生したかのように、それまで押し上げてきた戦線は同じ勢いで、いや、それ以上の速度で再び押し戻される。その過程で散った命は、数え上げるだけで絶望を生むほどだった。
 人類の滅亡が具体的に見えてきたのがいつかと問われれば、人々はこの頃を上げるようになる。
 ここにきて、戦場は武ほどの腕と幸運をもってしても切り抜けることが難しい真の地獄となっていた。機械では持ちえない『意志』を持つことが、生き延びるための最低条件。これは武に限らずこのときの人類にとっては持つのが最も難しいものであることは明らかだった。
 なんとしても生にしがみつくしぶとさと生き汚さを失いつつあった武は、次の戦場に漠然とした死の予感を感じながら、しかしそれを静かに受け入れていた。そんな態度を叱責することのできる者は、階級的にも心理的にもいない。
 彼が一人の少女と出会ったのは、そんなある冬の日、なにかの気まぐれで屋上に出た寒い夜のことである。
 この少女こそ、後の武が戦う理由そのものになることを、この時点で知る者はまだいない。


■2
 冬の空気とは、これほどまでに冷たく澄んだものであったのか。衣服の隙間から肌に触れようと忍び込んでくる冷気は、疲れた身に想像以上に辛く当った。
 なんの目的もなく外に出ることなど、もう随分と長い間なかったような気がする。圧倒的な人手不足による多忙が原因として真っ先に挙げられるが、しかし実のところ、それがなければいまみたいにふらりと屋上に足を運んだかといえば、それはないだろうとも思う。
 いつからだろう、あらゆる行動が欲求ではなく義務に支配されるようになっていたのは。
 いまの武を動かすのは『したい』ではなく『するべき』ことである。あるいは呼吸ですら、生きることが義務でなければ辞めてしまったかもしれない。だからこそ、たまたま空いた貴重な自由時間の使い方すらわからず、絵は完成しているのになぜか余ってしまったパズルのピースが外へと押し出されるように屋上へと足を運んだことは、統計学上ではノイズとして無視されてもおかしくないほどに希少な出来事であった。

「……あん?」

 寒さにも慣れてきた頃だった。満天の星空の下に出てから、時間にしてほんの数分だ。武は、それまで気づくことのなかった自分と、そしてこんな時間のこんな場所に人がいたことに驚いた。
 背は低い。華奢な後ろ姿は、軽く触れただけで折れてしまいそう。
 それはまだ幼い少女だった。
 子供は身体の成長が著しく、ゆえに外見から年齢を把握しやすい。しかし子供を見ることすら久方ぶりであった武には、自身の記憶から有用な比較情報を取り出すことができなかった。だから、十歳以上ではあるだろう、ということがわかる限界であった。

「こんな時間にどうした?」

 誰かの家族だろうか。耳にしてはいないが、しかしこの基地の人間は数の上で大半が武より下の立場であるから、少女は部下の娘である確率が高い。そんなことを考えながら声をかけた。
 一言でいって、無防備だった。
 少女が―――ではない。

「あんたこそ、こんな時間に星を見てる余裕なんてあるわけ?」
「―――――」

 武が―――である。
 だから少女が半身で振り返り言葉を投げ返してきたとき、武は驚愕に目を見開くしかなかった。
 そんな武の様子ですら、少女には面白いものに見えたらしい。にやにやと、見覚えのある意地の悪い笑み。
 強烈な既視感に頭を殴られ、武は眩暈を覚えた。急激に接地感が失われ、崩れた姿勢を支えるために足が一歩、二歩と後退した。
 そんなはずはない。そう思うより先に、少女は口を開く。

「久しぶりね、白銀。それともはじめましての方がいい?」

 武は天を仰いだ。星の小さな瞬は、この瞬間に限って、うろたえる自分を嘲笑っているかのようにしか見えなかった。
 これはどんな冗談だ。自分は夢を見ているのか。だとすれば、よほど疲れているらしい。
 吐息が白く煙り、そして夜空に溶けていく。

「それにしても、あんた随分と老けたわね」
「―――先生こそ」武はここにきてついに敗北を受け入れていた。「随分と若返りましたね」
「あら。どうしてあたしだってわかったのよ。親戚かもしれないし、はたまたただの他人の空似かもしれないでしょうに」
「そんな雰囲気を纏う人間が二人も三人もいたら、人類はこんな状況にはなっていませんでした」
「笑えない冗談ね」
「先生の格好は笑えますよ。指さして笑ってもいいですか?」
「そんなことしてみなさい。ぶん殴るわよ?」
「体罰派に転向したなんて聞いてません」
「あたしだって初耳よ。……どうにもねぇ、体の方に心が引きずられてる感はあるんだけど……。あんたの前だとそれが顕著になるみたいね」
「たしかに。以前の先生なら、オレにそんな弱みは決して見せなかったでしょうね。それで、どうしたんです?」
「どうしたって、なにがよ? それより白銀、あんたいまは他の目がないからいいけど、傍から見れば凄い光景だってことに気づいてる?」
「なにがです?」
「誰とも知れない12歳の女の子相手に、泣く子も黙る横浜基地の白銀大佐が腰を低くして敬語を使っている。こういえばいくらあんたでもわかると思うけど?」
「ああ、そういう設定なんですか」
「設定…………ま、いいわ。それで、あたしがどうしたって話だっけ? 別にどうもしないわよ。ただ香月夕呼の研究にはそういうもの、、、、、、が含まれていたってだけ」
「……じゃあ、あの脳みそもその一環で?」

 ここまで続けた軽い口調から一転、武は切れのある眼光とそれに相応しい口調で問うた。
 あの脳。結局あれの正体はいまでもわからないままではあるが、しかし倫理を嘲笑うかのような研究の産物、あるいは材料であることくらいは当時から理解していた。しかし訊くことはできなかったし、たとえ訊いたとしても彼女は教えてくれなかったろう。
 自分の外道を誰にも話せないのは苦痛だ。懺悔できる相手がいるということがいかに幸福であるかを、武は仲間たちを失ってから初めて知ったのである。そして、当時の香月夕呼にはそのような人がいなかったことに思い当った。
 外からは見えないだけで、不敵に笑うその裏では心が軋みを上げていたはずだ。それを垣間見た瞬間こそ、あのクリスマスの夜であった。だというのに武にはなにもできなかった。
 それは、いまの武にとっては貴重な後悔だった。なにせ、まだ後悔を残した相手が生きているのだから。
 だから武のこの問いかけは、香月夕呼を思いやるものではあったが、その実自分のためのものでもある。
 だというのに、そんな武の思いなど知ったことではないといわんばかりに少女はいった。

「脳みそ? ……なによそれ?」

 これに呆然としたのは武だ。

「―――は?」

 いくらなんでもあれを忘れるはずがない。だとすれば、あれはなかったものとして扱われなければならない存在になったのか。いや、当時からそういう存在だったのだろう。
 しかし少女の表情は本当に訝しげで、まるで己の記憶こそが偽者であるかのような感覚に武は陥った。
 またもやよろめきかけた武を引き戻したのは、その心を見透かしたかのような声だった。

「白銀。あんたの記憶は紛いものじゃないわ。問題があるなら、こっちにでしょうね。だからそのことについて詳しく話しなさい」
「話しなさいって、先生も知ってるはずでしょう。それこそオレより遥かに詳しいところまで」

 自分ではなんの役にも立てませんよ、と武はいう。

「役に立つか立たないか決めるのはあたしよ。いいからさっさと話しなさい」
「まあ、いいですけど……」

 そういいつつも、武はそれ以上を続けようとはしなかった。
 少女はそれに苛立って武を睨みつける。しかし出撃のたびに死と共に孤独な棺桶に押し込まれる武にしてみれば、もはやあの頃と同じ雰囲気を纏っていようと少女に睨まれた程度ではなんということはない。それどころか外見とはこれほどまでに他人の心に影響するものなのか、むしろ微笑ましいとすら思えてきて、久しぶりだと自覚しつつも口元に笑みが浮かぶのを抑えきれなかった。
 それがますます少女を苛立たせ、さらに武を喜ばせるという無限の連鎖を断ち切ったのは、少女の頭へと伸びた武の手の平だった。
 自分がなにをされたかまるでわかっていない様子で、年相応に見えるちょっと間の抜けた顔になった少女は武を見上げる。

「そんな顔もできたんですね。心が体に引きずられるっていうのは事実でしたか」子どもにするように頭を撫でて、「まずは中に入りましょう。風邪を引きますよ、お譲ちゃん」

 さて、どんな反応を見せるのか。既に中年オヤジの域に足を踏み込んだ武が趣味の悪い楽しみを見つけた瞬間だった。
 一方の少女はというと、

「と、年上が好きだからってあんたのことを好きになるわけじゃないんだからね!」

 なんともまあ見事なツンデレさんであった。吹っ切れ過ぎている。きっと彼女にもいろいろあったのだろう。武の知る香月夕呼は壊れてしまったに違いない。
 まあそれはそれでなかなか……、などと考えながら、武は少女に大人の余裕を見せつけるかのように、大人げなく生暖かい目を向け続けた。
 ちなみにこのご時世、12歳を自称する彼女より若い男などほとんど残っていない。


■3
 嗜好品を含むあらゆる物資は、実はかつてより巡りが良い。それらの消費速度よりも、人命の消費速度の方が速いからである。だからこうして少女に甘ったるい本物のココアなんぞを出すこともできる。
 幼い舌は苦味よりも甘味を好むという予想は見事に当たったらしく、少女は満足げに湯気の立つマグカップを抱えている。
 それにしても変われば変わるものだ。武は簡素なベッドに腰かけて、少女を観察していた。香月夕呼の子供時代など一かけらも想像できなかったし、実際十代半ばで既に大学に足を踏み入れていたようではあるが、しかし実際小さくなってみればこれである。彼女がどのような魔法を使ったのかは知らないが、夢じみた現実との乖離感が靄のように漂っている。ぶっちゃけ少女の中身は四十路も近いはず。だというのに不覚にも武はときめきかけた。やばいぞこれは、若かりし日、霞に欲情しかけたときよりもさらに濃い背徳に香りが……!
 一人悶える武。そんな怪しいおっさんを眺める少女の目は、どこか穏やかだった。それは親が子の無事を知り安堵する眼差しなのか、それとも子が親の存在を無条件に拠り所にする視線なのか。
 少女のマグカップが湯気を上げなくなるまで、それほど時間はかからなかった。カップが机に置かれる小さな音を合図に、会話をするための空気が組み上がる。
 会うのは十数年ぶりだというのに、お互い、相手に話せることは少なかった。だからといって暇だったわけではない。同じことを繰り返すのに忙しかっただけだ。
 夕呼はあのあと、どことも知れない辺境の研究所に飛ばされたらしい。そこで監視されながらも細々と研究を続けていたという。そして、その成果としていまの幼い姿がある。彼女が話したのはただそれだけだ。苦悩も苦労もあったろうに、それを見せようとはしなかった。体が幼いせいで精神的に不安定なところがあるが、一度落ち着きを取り戻しさえすれば、その様子は十分に香月夕呼たりえる。ときどき冗談のように愚痴を交えながらも基本的には淡々と話すその姿が、武にはそう感じられた。
 なので武は死んでいった仲間たちのことを誇らしく語った。それでも一人で戦い続けたことだけを語った。情けないガキだった頃を知る人に意地を張りたかったのかもしれない。あるいは、外見だけでも幼い少女に泣きごとなど恥ずかしくていえなかったのかもしれない。気づくのが遅かった。香月夕呼という人との付き合い方は、ただ頼るのではなく、このように正面から向き合う姿勢で挑むのが一番楽しいのだということに。
 一通り自身の経歴を語り終え、ふと時計に目をやれば、随分と時間が経っている。語る内容はそれほど多くなかったはずなのに、己の口から想像以上に言葉が出ていたことに武は驚いた。

「随分とため込んでたみたいじゃない」

 話の終りの気配を見逃さず、少女はそういった。
 武は少し気恥ずかしくなって頬をかいた。

「もう何年もこうして誰かと話すことなんてありませんでしたからね。先生の方は、そうでもないようでしたけど」
「あたし? そうね……、まあ、あんたに会ったらいってやりたいことは色々とあったけど、実際会ってみてどうでもよくなったわ。それに話す相手には不自由してないし」
「げ。先生の話についていける人なんているんですか? 一度顔を見てみたいですね」
「……いうようになったじゃない。あんたそのうち口が原因で身を滅ぼすわよ」
「それはありません。オレは戦場で死にます」
「へぇ?」

 少女は片眉を上げ、小さく首をかしげた。
 武は苦笑し、肩をすくめて見せた。

「ま、その時はできる限りヤツらを道連れにしてやりますけどね」
「……そう。賭けはあたしの負けってことね」
「……? どういうことですか?」

 今度は武が首をかしげる番だった。
 その頬を容赦なく平手が張った。部屋にいい音が響く。
 痛くはなかった。代わりに不意を突かれた驚愕が武の動きを縛っていた。

「いまのはまりもからの伝言よ。あんたが腑抜けたことをいうようなら、自分の代わりに一発殴っておいてほしいって」
「はあ? どうしてまりもちゃんが―――」

 打たれた頬をなんとはなしにさすりつつ武。

「いわなかったかしら。神宮司まりも。いまのあたしの書類上の保護者。ほら、保護者の頼みはそう簡単には無下にできないじゃない? あ、ちなみに母親は故・香月夕呼博士よ。いや〜、自由っていいわねぇ」

 とんでもない抜け道があったものである。武は本日何度目かもしれない驚きに言葉を失った。なかなかどうして耐性というものはできないらしい。
 この分では、先の話に出てきた話し相手の正体も神宮司まりもその人なのだろう。未だに親友に、それもちょっと舌っ足らずな感じの少女に苛めらて枕を涙で濡らす元教官の姿を思い描き、武の表情は同情のそれになった。
 この世界に来たとき、何が起こるかわからないということは学んだはずだ。だが、まだまだ認識が甘かった。
 にやにや笑いに満たされた沈黙をどうにかして破らねばなるまい。そう考えた武は精一杯の皮肉を口にする。

「じゃあ、まりもちゃんにはこう伝えておいてください。ご愁傷様、と」
「そうね。あんたの教え子はもう死ぬ気でいるからご愁傷様、って伝えといてあげる。そうすれば今度は自分で殴りに来てくれるんじゃないかしら」
「ぐ……」

 ああいえばこういう。
 いまこの瞬間に限ってご愁傷様なのは武自身だった。

「わかりました。オレは生き残るためにもう少し頑張ってみますから、それだけは勘弁してください」
「口だけならなんとでもいえるけど?」

 そう切り返されると、なにをいっても無駄になる。だが武は弁論で生きる政治家ではなく、戦術機で生きる衛士だった。ゆえに、ただ一つだけ有効な手段を持っている。
 この世界、結果がすべて。すべてが結果。特に軍とはそれが顕著な場所である。
 誘導されているのは明らかだ。
 武は流れに逆らうことなく、その言葉を口にした。

「この基地はあと三度のBETAの侵攻には耐えられないというのが、オレを含めた上層部が出した結論です。―――五度まで耐えてみせます」

 もう人類が攻める側に回ることはない。いつか敗れることを理解しながらどうにか凌ぐことだけが、人類に許された戦いだった。
 津波のごとく押し寄せる大質量をさばき切ることのできる基地は、世界を見渡しても数少ない。その一つである横浜基地を名実ともに支える男は、耐えてみせると断言した。

「そ。それじゃあ、あたしは五度目の侵攻を受けるまでこの基地に滞在することにするわ」
「…………」

 五度目の侵攻を受けたとき、きっと同じ質問をされ、同じことを口にさせられるのだろう。そんなこと、わかりきっていた。
 わかりきっていながら、武は頷いた。
 そして、

「そうそう。あたしは神宮司まりも大佐の紹介で横浜基地を見学しに来た、白銀武大佐の客人って扱いだから」

 宿泊費やらなにやらの負担は任せた、と酷いことをいい残し、少女は颯爽と去っていった。
 結局脳みその話をし忘れたな、と思いながら武はその背中を見送った。


■4
 白銀武の部屋を出た少女は、閉めた扉に背を預けた。その顔は、心の中で混ざり増幅した様々な感情が溢れ出し、それゆえの無表情。
 はぁ、と疲れたため息をひとつ吐いて、

「ほんと、どうして白銀武にしても香月夕呼にしても、最後まで諦めようとしないんだか……」

 呆れたように一つ呟いた。
 静かな廊下にその声を聞く者はおらず、声は響き、やがて消える。
 まりもと少女との賭けは、、両方とも、、、、少女の負けだった。
 白銀武は疲れきっていたし、発破をかけられればその瞳は力を取り戻した。どちらもまりものいうとおりだった。
 流石、元教官は違う。
 少女は舌打ちし、そして自分が与えられた部屋へと足を進めた。


■5
 それほど長くない時が流れ、白銀武は約束通りに五度の侵攻から辛うじて帝都と横浜基地を守ってみせた。


■6
 足りないものは他所からもってくればいい。正論である。しかし、もう『他所』はなかった。だから白銀武は、足りない分を自身が無理をすることで補った。
 心身ともに朽ち果て欠けている。鍛え上げられた肉体は酷使され過ぎて、畳の上で死ねたとしても、それは五十年も六十年も先の話ではないだろう。いわば寿命の前借りだ。まさに命を燃やしつくす勢いで、彼は生きていた。
 死にたくない。
 生きなければならない。
 だが、それでも限界は来る。
 目を失えば見ることができない。足を失えば歩くことができない。世界が定めるそのような純然たる規則と同じレベルで、横浜基地は次を耐えることはできない。想像できるすべての幸運が偶然にも積み重なって理想的な結果を得たとしても、それは基地の壊滅とBETA群の撤退との交換になるだろう。
 楽になれる。誰もが心のどこかで思っていた。武とて例外ではない。そのようなことを例の憎たらしい少女にいったような気がする。少女はそれを聞いて、ようやくどこか安堵したように微笑んだ。初めて見る表情だった。
 気づけば彼女は武の前から姿を消していた。それはいつかのクリスマスと同じ鮮やかさで。
 去った少女と入れ替わるように、武の前にはまりもが現れた。横浜基地最後の戦いを支援するための数少ない増援。死への片道切符を手にやってきた日本の最精鋭。
 皆、武と同じ表情をしていた。まりもも同じ表情をしていた。

「お久しぶりです、神宮司『軍曹』殿」

 外部の大佐をそう呼んだ武を、周囲の人間がぎょっとして見る。
 呼ばれたまりもはというと、おや、という顔をしたあと、期待に応えて軍曹の顔を作った。

「久しぶりだな、白銀『訓練兵』」

 それだけのやり取りで、皆、二人の関係を察したようだった。
 白銀武。神宮司まりも。両名とも、この時期においても腕のいいことで知られる衛士だ。その部下ともなれば、実際にその力を目にし続けている。しかし、武の部下はまりもの実力を、まりもの部下は武の実力を見たことがない。それでも白銀武の元教官ならば、神宮司まりもの元教え子ならば、誰よりも信頼できる。彼になら、彼女になら、死ねといわれて素直に死ねる。決して犬死にはならないと、信じることができる。
 自虐的な見方をすれば、それは部下を上手く死なせるための準備であった。


■7
 まりもが武の部屋を訪れたのは、その日の夜だった。
 BETAの行動は予測不可能。だというのに、肌の表面が電気を帯びているかのようにピリピリとした嫌な予感がある。同じものをまりもが感じていることは、顔を見ればよくわかった。だが二人はそれについてはなにも触れることなく、まるで平時と変わらない様子で挨拶を交わしていた。

「改めて、お久しぶりです。まりもちゃん」

 先手を打ったのはまたもや武だ。忘れていたはずの悪戯っぽい笑みは現役そのままで再現できた。そのことに一番驚いたのは武自身だった。
 懐かしい呼び方をされたまりもは、それをどのように解釈したのか、

「よかった。その様子だと、どうにか持ちなおしたみたいね」
「あの張り手は心に響きました。まりもちゃんにしてみれば歴史的な快挙だったんでしょうけど」

 いつも親友の手によって酷い目にあってきたまりもにしてみれば、百回続けて一の目が出たサイコロのようなものだろう。あるいは、百回振ってようやく一の目が出たといったところか。
 からかい混じりの口調は、これももう随分と長い間お蔵入りしていたものだ。それがここ最近になって続けざまに発掘され、武の表面に姿を現している。
 昔馴染みの人はそこにいるだけで力になる。それを強く実感できた。

「そうでもないわ。あの子との勝負なら、結構いい線いってるのよ?」

 そのいい様に、武は思わず口元を釣り上げた。注ぐコーヒーの滴が、体の上下につられてわずかに跳ねる。

「はは。あの子、って。流石にそのいい方はないでしょう」
「あら、どうして? これでも保護者なんだし、そう呼ぶ権利くらいはあると思うんだけど」
「きっと本人の前で呼べば怒りますよ。―――はい、どうぞ。熱いので気をつけて」

 武はマグカップを手渡した。まりもが礼をいって受け取る。
 今度はココアではなくコーヒーが入っている。

「砂糖もミルクも部屋にはないんですけど、必要なら取ってきますよ」
「いいえ、必要ないわ。ありがとう」

 まりもはカップを傾ける。その姿が、いつかのココアを飲んでいた少女(偽)に重なって見えた。
 やっぱり親友なんだなあ、なんて暢気なことを武は考えた。

「―――美味しい」
「本物ですからね。オレは飲まないんですけど、来客用に置いてあるんです。せっかくなんでもっと飲んでいってやってください」
「そうね……」

 終わりを感じさせる言葉に、二人は自然と口をつぐんだ。それは決して気まずさからではない。
 部屋にたゆたうのは、柔らかい沈黙だった。
 まるで老人が過去を懐かしむような、そんな時間が過ぎていく。
 まりもが、ほう、と息をついた。

「―――それで、あの子に会ってみてどうだった?」
「そうですね……、昔と全然変わらないかと思えばそうでもなかったりと、色々面白かったというのが本音ですかね」

 自覚しない微笑みで武は語った。

「―――――え?」

 返って来たのは、幽霊を見たかのような視線だった。

「ちょっと待って。白銀。あなた、誰に会ったの?」


■0
 西暦2002年9月。まだ夏の暑さが残る日、新しい命が誕生した。
 女の子だ。
 彼女の母親は、名を香月夕呼といった。女であることを、そして人であることを犠牲にしてまで人類のために戦い続け、そしてついに破れた人物である。
 何もかもを失ってから自身が子を宿したことを知り、夕呼は盛大に笑った。聖母になれなかった女がまさか母になろうとは。最高の冗談だ。これを笑わずしてなにを笑う。
 自分に人の親たる資格はない。彼女はそう思っていた。そんな夕呼であるから、子を産み落とすつもりはなかった。
 産み落とす。実に的確な表現である。子は、この地獄に落ちてくるのだ。そして底辺を泥にまみれて這いまわるような戦いを強いられる。実際、赤子が成人するより早く人類は滅びるだろうというのが、横浜基地の元副司令としての判断であった。
 わざわざ辛い思いをするために生まれてくることはない。夕呼に自覚はなくとも、それは母としての愛だった。あるいは人としての恐怖だった。
 だというのに子が生まれることが出来たのは、夕呼が風の便りに聞いた一人の男の存在が大きな原因である。
 一人の男―――白銀武。子の父親だ。もっとも、彼は自分の遺伝情報を受け継いだ存在のことなど知らない。酒と燃え盛る心火とに駆られた女と一度だけ情を交わし、それで子が出来たと確信する人間などいない。
 夕呼から見て、武はまだまだ子供だった。体こそ軍人のそれに仕上がりつつあったが、心は幼い。BETAなどいない世界で生まれ育ったのだから無理はない。よほどのことがない限り、根柢の部分から変わるということはないはずだ。だが『よほどのこと』が起きる確率は高い。仲間の死など、起きない確率の方が小さい世界だ。そのとき、彼が良い方向へと変わるならばいい。しかしその可能性もまた、彼らが全員無事に生き残る可能性と同じく、容易には望めないものだった。
 別の世界から来た彼にとっての拠り所となれる者は極めて少ないことはわかっている。更に身近にいられる者ともなれば、まず間違いなく同じ分隊の仲間たちだけだ。その仲間をすべて失ったとき、白銀武はあっけなく折れるだろう。もちろん彼が折れるよりも先に死ぬ可能性は高い。しかし夕呼は、白銀武を残して彼の仲間たちが皆死ぬという可能性のためだけに子を産むことにした。彼女にできる戦いは、もはやそれだけだったのだ。
 そう。夕呼は自分の子を、人類の戦力を一人減らさないためだけの道具として扱うことにしたのである。
 ここにきて、人類のために手段は選ばないという狂気は健在だった。それは夕呼の強さであったし、同時に弱さでもあった。
 幸か不幸か、生まれてきた娘は高い知能を持っていた。母親のそれを受け継いだらしい。夕呼の仕事は、そこに知性をデザインすることだった。夕呼にとって都合がいいように、すなわち未だ現実には存在しない、可能性の中の白銀武にとって都合のいいように、少女は一から作り上げられていく。それはまるで積み木を積むような作業。違いは、一度積み上げた部分は崩すことができないという点だけだった。
 少女は十年もかからず完成する。香月夕呼が死亡したのは、ちょうどその時期である。死因は不明。少なくとも、公式にはそのように扱われた。
 香月夕呼の唯一の遺言は、娘の引き取り手を指名するものだった。それに従い、少女は神宮司まりもの元に引き取られる。まりもが少女の父親が誰であるかを知って驚いたことは言うまでもないし、それ以前に香月夕呼に娘がいたことを知ったときは大いに驚いてみせた。
 まりもは少女に、父親の元へと行くことを勧めた。しかし少女は頑なにそれを拒む。まだ自分は必要ない、と。それが彼女の反論だった。
 少女が父親の元へと向かったのは、それからさらに数年後のことである。


■エピローグ
 戦術機のコックピットは世界一安全な棺桶だ。問題があるとすれば、生きたまま入らなければならないという点か。そして、今度こそ生きては出られないだろうという予感を、衛士たちそれぞれが持っていた。
 あらゆる準備は整っていた。あとは出撃を待つだけだ。十分に最後となりえる戦場を前に、武は静かなコックピット内で、昨晩のまりもとの会話を追想している。
 まさかこの自分に、この世界において血のつながった存在がいたとは夢にも思わなかった。これはたしかに生きて帰らざるをえない。まったくもって夕呼先生の思い通りだ。
 しかし自分がいまの心境に至ったのは、偶然によるところが大きい。まりもとの会話によって事情を知ったこと自体、かなり低い確率を引き当てた結果である。振り返ってみても、あの少女が武を奮い立たせるために起こした行動はビンタ一つ程度しか思い当たらない。それどころか最後に会って会話をした時、すなわち武が諦めに似た言葉を漏らしたとき、彼女は心の底から安らいだかのような笑みを見せた。あれはいったいどういうことだったのだろうか。
 武に思いつくのは、少女は武を前にして初めて感情のままに動いてしまったのだ、という推測だった。彼女はいっていた。いいたいことは色々あったが、どうでもよくなった、と。あれはつまり、そういうことなのではないだろうか。
 最後の最後で彼女は自身に課せられた役割を捨て、不安定な感情に身を任せて行動した。そうでなくては、絶望的な状況にあって武は未だに大丈夫だという方に賭けてみたり、かと思えばようやく楽になれるといった武を見て安堵したりといった支離滅裂なことはしないはずだ。

「まあ、なににせよ本人に聞かないとわからないか……」

 やがて出撃の命令が下った。
 武は部下たちを率いて戦場に出る。
 その心はいつの間にか『死にたくない』や『生きなければならない』ではなく、ただ純粋に『生きたい』と願うようになっていた。



モドル