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あさきゆめみし




 私は、夢を見ている。



 墓は、知らぬ者が見れば決して王のそれとは思えぬほどに質素だった。
 生前に、否、死後でさえも英雄として讃えられる呉の先王は、しかし、死後にまで王という形式に縛られるのを嫌い、王に相応しい墓では眠っていない。あるいは、民の幸福のために立った王には、呉の民の生きる大地であれば、それこそが並び立つものない最上の墓であるのかもしれない。
 確かなことはわからない。ただ明らかなのは、その語り継がれる活躍の鮮烈さとは対照的な、静粛にして寂然とした空間に、雪蓮の母が眠っていることだけである。
 そんな人気のない墓の周囲を掃除し、川から汲んだ水で墓石を磨き、それから一刀と雪蓮は墓前に並んだ。
 雪蓮は墓石近くで跪き、一刀は彼女の背後に立つ。
 二人がこの場にいるのは、雪蓮が一刀を連れ出したからだった。その道中、一刀がしきりに訝り、それを雪蓮が指摘するも、彼自身なにが気になるのかまるでわかっていない様子だった。しかし、それも雪蓮が話し始めると鳴りを潜めたため、いまは風と水の音を背景に、雪蓮のよく通る声のみが聞こえてくる。
 雪蓮が語ったのは、世間で言われる英雄について、そして師にして母である人物についてのことだった。武に優れ、旗揚げから瞬く間に孫家の礎を作り上げた偉大さと、娘から見ての、母親として失格ともいえる評価。幼い頃から母に連れられて戦場を巡ったという体験。
 それらを語る雪蓮の声は、昔を懐かしむようでもあり、背後の一刀に身を寄せるようでもある。今の彼女は呉の王ではなく、亡くした母を思う一人の娘だった。
 そして、言葉はやがて一刀ではなく母に向けられたものへと変わっていく。奪われていた土地故郷を取り戻したという報告と、呉の悲願を必ず叶えるという誓い。皆が笑顔で暮らせるために戦うという決意。
 誰よりも重たいものを背負う小さな背中を、一刀はじっと見つめていた。
 その視線の先で、言葉が締めくくられる。
 否、
 締めくくられようとした。
「でも、あなたの娘は命の限り戦うから。母様が思い描いた夢、呉の民たちが思い描く未来に向かってね……。
 母様……、天国から見ていて。あなたの娘達の戦いぶりを。そして、呉の輝かしい未来を――――」
「雪蓮……!」
 声を上げるが先か、雪蓮を庇わんと地を蹴るが先か。
 ほんの刹那でも遅れたならば、放たれた毒矢が呉の王を貫いていただろう。
 しかし、そうはならず、
 矢は代わりに天の御遣いの肩を削って、そのまま一直線に駆け抜けていった。



 あさきゆめみし



 二週間後。
 なんとそこには元気に剣を振るう北郷一刀の姿が!
「もう毒矢に中たったりなんかしないよ」
「ほれ、北郷! いまは毒矢よりも目先の剣を防ぐことを考えんか!」
 空気を切り裂く刃は、とても片腕で振るわれたとは思えない鋭さで以て一刀に襲いかかった。
 呉の宿将、黄蓋が放つ一撃は、速くて重い。一刀の体はその恐ろしさを痛みと共に学習しているはずだったが、病み上がり故に反応が遅れた。速度の乗り切った剣に、彼は慌てて自分の武器を合わせようとする。
 蒼天の下、鉄同士が激しく打ち合わされる音。
 腕が付け根から千切れかねない強撃だった。そして、全身を襲う一瞬の停滞。腕は剣ごと跳ね上げられ、胴はがら空き。引き延ばされた時間の中で、一刀と祭の視線が交差する。来るとわかっていても、対処のしようがない。回避も防御も不可能だ。一刀がそこまで悟ったのを見て取ったのだろう、祭はわざわざ宣言することなく、隙だらけの胴体を狙って剣の一閃を放った。剣が刃引きされていなければ、そして両の腕で放たれていたならば、どう間違えても身体が上下に二分される状況だ。そう考えれば、どれほどの痛みであっても耐えられないものではない。しかし、一刀は最後の悪あがきで、自分から一歩を踏み込んだ。祭ほどの実力者だ、相手がどのような回避行動を取ろうと、必ず合わせてくる。ならば、一撃もらうことを前提として、次善の策を考える。すなわち、どれだけ被害を減らせるかに主眼を置いたのだ。その結果が、自ら剣に向かって飛び込むことだった。
 加速しきる前に標的を捉えた祭の剣は、いつものように衝撃で打ち飛ばすのではなく、引っかけて運ぶようにして一刀の体を宙に放り出した。
 この世界に来て、人が地面と平行に飛ぶことを初めて知った一刀だったが、今回はどうにか放物線に近い軌道で済んだ。
 背中での着地によって肺の中身が強制的に吐き出されるのはいつもの通り。しかし、打たれた部位の焼けるような痛みは、記憶にあるほど酷いものではないようだ。酷くはないだけで、もはや立ち上がれないほどに打ちのめされたことには変わりないのだが。
「一刀!」最初に声を上げたのは、地に背を預けて天を仰ぐ一刀ではなく、彼を心配する少女だった。少女は小動物みたいに素早く駆け寄って、一刀の腹に馬乗りになり、その顔をのぞき込んだ。「一刀! 死んじゃだめ! シャオを残して死んだらだめなんだから!」
「ぐっ……、だめだシャオ、俺はもう……、って、痛い! やめて、後頭部が……!」
 シャオがガクガクと揺さぶり、一刀はゴツゴツと頭で地面を叩く。傍目にはマウントポジションを取られて一方的にやられている図にしか見えないが、実のところあまり違いはない。ただ一つ違う点があるとすれば、なにをやられるか、ということだろう。土地柄なのか、それとも孫家の血によるものなのか、じゃれつく仕草も多少ハードでアグレッシブ。まだ幼く可愛いが、それでも彼女は猛獣なのだ。一刀もそれを理解しているから払い除けたりはせず、シャオの小さい身体が転げ落ちないように気をつけながら、ゆっくりと上体を起こす。
「いてて……」一刀は自分の後頭部をさすった。「ほら、シャオ、降りて。砂とか汗とかで服が汚れるから」
「ごめんね、一刀。頭大丈夫?」
「その訊き方はやめてほしい」
 一刀のぼやきに重ねるように、笑い声が生まれた。
 一つは、聞いているとくすぐったくなりそうな、シャオの可愛らしい笑い。もう一つは、聞いていると悩みなどなくなりそうな、祭の壮快な笑い。
「しかし、しばらく寝込んでおったわりには、そう衰えてもおらんようじゃな」祭がいった。
「そうかな? どっちかっていうと、俺の実力は下がったけど、祭さん相手だと大して違いが出なかっただけじゃない?」
「いいや、儂がいうておるのはそういうことではない。儂とて十日も二十日も寝込めば、力は衰えよう。そうではなく、剣を振るうときの勘に感覚、度胸に心構え、これらの話をしておる」
「勘に感覚」一刀は鸚鵡返しに呟いた。
「うむ、それに度胸と心構え」しかり、と祭は頷いてみせた。「最後に一歩、踏み込んできたあたりなどは、むしろ成長したといってもいいじゃろう。傷が浅くなるとわかっておっても、進んで痛みに身を晒すことはなかなかできん」彼女は悪戯っぽく口の端を持ち上げる。「もしや死の淵よりなにか持ち帰ってきおったか?」
「はは……、そういえば、散々心配させといて悪いけど、お土産を買ってくるの忘れてた」
 もちろん、一刀の命が毒に敗れなかったからこそいえる冗談である。けれども、この場には、彼が倒れている間ずっと傍で心配し続けた少女がいた。
「もう、祭! 笑い事じゃないんだから! 一刀も自分のことでしょ!」シャオは怒って、ぷくぅ、とフグのように頬をふくらませた。ついでに一刀の背中に飛び乗って、コアラみたいにしがみつく。
「痛い痛い。シャオ、痛いって」一刀は、先ほど打たれた脇腹を腕で庇う。
「知らない! 一刀はもっと、シャオが心配したのと同じくらい深く反省すればいいの!」
「ははは! 孫家の姫君にここまで思われる幸せな男は、大陸広しといえども他におるまいて」祭が呵々と笑う。彼女はいつの間にかシャオの味方になっていた。いつになっても見習うべき立ち振る舞いが彼女にはある。
「そうよ、一刀はそれがわかってないんだから」
「わかってる……つもりなんだけどなぁ」
「全然わかってない! ぎゅー!」
 一刀の胴を、シャオが全身を使って思い切り抱きしめる。アナコンダに捕まった獲物そのものの悲鳴を上げて、一刀は悶えた。
 わかっていると答えたせいでこうなったが、わかっていないと認めれば、それはそれで怒られていたはずなので、なんとも酷い罠だといえる。が、海よりも深い心配をさせてしまったのもまた事実。その負い目もあって、一刀は痛みに耐える。断じて痛いのが気持ちよくなってきたわけではない。
 やがて、疲れたのか飽きたのか、シャオが力を抜いて、一刀は解放された。
「さて、そろそろ手当てをした方が良かろうて」タイミングを見はからって、祭がいった。「それに、この場所も―――」
「あれだけ剣をぶつけ合う音がしたら、流石にばれるかな。えーと、そういえば、シャオは蓮華と穏から逃げてきたんだっけ?」
「だって、お姉ちゃんってば、すぐガミガミして」いったとおりの光景を思い出したのか、シャオは顔をしかめた。「……祭は冥琳から逃げてきたんでしょ?」
「うむ……。儂はただ、仕事の合間に酒を嗜んでおっただけじゃというのに、あやつめ」戦場にて痛恨の一撃を受けたかのような苦々しい表情を作る祭。「して、北郷、お主は安静の指示を振り切って出てきたのであろう?」
「うん、まあ……、いま雪蓮にとっ捕まったら、簀巻にされて寝台に放り込まれそうな気がするよ」一刀は苦笑する。「何度も見舞いに来てくれるのは嬉しいけど、ちょっと心配しすぎというか、責任を感じすぎというか。本当にありがたいんだけどね」
 実に酷いもんだった。
 このどうしようもないお尋ね者三人衆、示し合わせて集まったわけではないから余計にタチが悪い。
「あ、閃いた」一刀がパチンと指を鳴らす。
「なにを?」間髪入れずにシャオが尋ねた。同じように、祭も視線で先を促す。
 一刀は大いに頷いてから、口を開いた。「我ら三人、立ちふさがる壁は違えども共通の目的を持ちにしからには、心を同じくして助け合い、困窮する者同士、救い合わん」
「……ふむ、なるほどのう。北郷もなかなか考えおるわ」
「え、なにが? ねえ、どうしたの? 祭? 一刀?」シャオが二人の顔を交互に見る。
「つまり、俺は雪蓮には捕まるけど、冥琳や蓮華や穏には捕まらないってことさ」
「そして」祭が言葉を引き継いだ。「儂は冥琳に追われる身ではあるものの、雪蓮様や蓮華様、それに穏には追われてはおらん。北郷軍師よ、そういうことじゃな?」
 一刀は頷いた。
「あっ!」シャオは嬉しそうに両手を合わせた。「じゃあ、シャオはいまから冥琳に、祭の居場所を教えに行く! 祭は町外れの森の中にいるよ、って」
 流石にこういうときの頭の回転は速かった。シャオの空色の瞳は、きらきらと輝いている。
 その様子を見て、祭も一刀もこっそりと頬を緩めた。
「では、儂は北郷が市に出かけたとお伝えしてこよう」
「俺はシャオが―――」
「小蓮がどこにいるっていうの?」蓮華の声が、強引に割り込んだ。「ねえ、一刀。もちろん城内の広場、つまり、ここにいるって教えてくれるのよね?」
 ギギギ、と錆びたブリキ人形のように首を動かせば、三人が三人とも、己を追う狩人の姿をそこに見つけた。
 ……見つけてしまったのです。
 銅鑼の音は鳴らねども、思いもせぬ伏兵の出現に、三人は揃って驚愕を顔に貼り付けた。
 屠殺場に送られる豚を見て、これからどうなるのか疑問に思う人間がいないように、
 連行される彼らを見て、これからどうなるのか想像できない人間もまた同じく存在しない。
 かくして、自由への勇敢なる挑戦は、ほんの数分で頓挫したのであった。



 連れ去られた一刀を待ち受けていたのは、簀巻などという生ぬるい試練ではなかった。
「安静を命じておいて亀甲縛りにするのはおかしいと思うんだ」
 部屋には、彼の声に応える者はいない。そんな状況が既に一時間ほどだろうか、続いている。
 雪蓮は少なくない仕事が残っているらしく、一刀を手際よく治療してから縛り上げ、寝室に放り込み、すぐに去ってしまった。きっと今頃は、机に向かい書簡の山と格闘しているはずだ。
 そして、縛り上げられたまま眠りにつけるほど図太くない一刀は、ここまで延々と、ただひたすらに暇な時間を過ごしていた。話し相手はおらず、手足も動かせないとなると、彼でなくとも相当なストレスを感じるだろう。ときどき全身で跳ねるように動く姿は、まな板の上の鯉か、そうでなければ祭壇の上の生贄にしか見えない。ただただ捌かれるのを待つ身の上である。
「誰かいないのかー? おーい、雪蓮。もう逃げ出さないから助けてくれー」
 命乞い、もとい救助の嘆願は、既に定時報告と化しつつあった。返事は、どこか遠くから聞こえてくる音だけだ。その音は拡散して焦点が合っておらず、耳に優しい。恐らくは、軍の調練が行われているのだろう。この城で寝起きする者には馴染み深い音色である。そして、それを聞くとき決まって思い出す、放課後の教室の懐かしい空気。もう随分と長いこと触れていないので、本当に似ているのかは断言できないが、とにかく近いイメージがそれだった。
 部屋の扉が開いたのは、そんなピントが外れてぼやけた写真みたいな時間が、更にしばらく続いた後だった。
 現れたのは、穏だ。
 彼女は薄く開いた扉の隙間から部屋をのぞき込む。そして、寝台の上に一刀の姿を認めると、なぜか嬉しそうに目尻を下げた。
「あらあら、本当に縛られちゃってるんですねぇ〜」
「じっくり観察してないで助けて」様々な角度から見られ、一刀は標本にされた虫の気持ちで文句をいった。しかし、それは無視され、返事の代わりに首筋に息を吹きかけられる。「って、こら、どこ触ってる!」
「どこって……」穏はくねくねする。「わかってるく・せ・に」
 一刀の耳を甘噛みしながら、大陸最強のパイロマニアは彼の体にそっと手を這わせた。
 まだ熱を持つ脇腹を、白く細い指がそっと撫でると、一刀の体は火に触れたかのように、反射的に逃げようとする。しかし、全身を縛める縄に阻まれ叶わない。
「うあっ!? な、にして―――」
「ついさっき、小蓮様のお勉強のお時間が終わったんですよぉ。それで、今度は一刀さんのところに向かえと冥琳様が仰って」穏は背に手を回し、一冊の本を取り出した。「ついでに、これを持たせてくれたんです」
 ここに来る途中、我慢できずに読んじゃいました〜。タンポポの綿毛みたいに締まりのない声で、彼女はそういった。
「ちょっ、だったらそれで勉強しぃッ!?」一刀の体が、絶命直前の痙攣のようにビクンと跳ねる。
「うふふふ〜♪」
 ち○こ!
 ち○こ!



 散々搾り取った挙げ句、縄を解かずに撤退していった穏だった。残されたのは、打ちひしがれた負け犬だけ。しかし一刀は、ああいうのも悪くない、などと心のどこかで思っていたりする。順応の幅の広さが売りな男なのだった。
「はぁ……」一刀はため息をついた。そこに溶けた呆れの気配は、果たして誰に向けられたものか。きっと北郷一刀という存在に対してのものなのだろう。
 窓の外を見る。既に茜色が広がっていた。浅い角度で部屋に差す夕日は、目に眩しくも、どこか優しく感じられる。
 夕焼けの空。
 柔らかく包み込んでくれるような、春の暖かな陽気にも似て……、
 けれども、もっと成熟し、懐の広い、
 そういった、印象。
 連鎖して浮かび上がるものは、
 故郷、だろうか。
 帰れば、無条件で抱きしめ受け入れてくれる、母なる存在。
 そして、それを求める、懐郷の念。
 では、帰るべき故郷とは、どこなのだろう。
 ―――なにか、脳裏をよぎった気が、した。
「いまの俺は……」一刀は悟りを開いた仙人の瞳で呟いた。「賢者モードになってる」
 なにもかも台無しだった。
 パズルのピースはばらばらになり、見えかけていた全体像は、霧雨のように細かく散ってしまった。眠りから覚めれば夢を思い出せなくなるように、いまから必死にかき集めようとしても、それは無駄な試みに終わるだろう。
 ぐぅ、と一刀の腹の虫が不機嫌な鳴き声を上げた。
「そういえば、昼を食べる前に捕まったんだっけ……」
 すっかりボンレスハムの心境を理解できるようになった彼だったが、それでも腹が減るのは止められない。
 同じように、苦しむ者の心境を理解できても、人が人を苦しめることは往々にしてある。そして、それは支配者層に身を置けば、決して避けられぬ苦悩となって立ちはだかる現実だった。
「支配者といえば、雪蓮もこの時期だと忙しいんだよなぁ……」一刀はぼやく。「たしか曹操が攻めてきたあのとき、俺が毒で倒れたことを公表して、天の怒りは天の御遣いに毒矢を放った魏と曹操に向いている、とかいったんだっけ。そのおかげでかなり多くの魏の兵が離脱したはいいけど、次の戦いの準備や、蜀と協力するための段取りが欠かせないのは変わらないわけで……、穏がシャオや俺の勉強を手伝える程度には落ち着いたものの、王様やってる雪蓮や、その尻を叩きつつ自分の仕事もこなさなきゃいけない冥琳の忙しさは、相変わらず地獄みたいな状態、と。それに比べて、俺はただひたすらベッドの上の住人。これ、どう思う?」
 空気が停滞したような、一瞬の静寂。
「気づいていたか」
 リン、と鈴の音。
「げぇ! 思春!」一刀は縛られたまま、出来る限り仰け反った。
「……?」思春は眉をひそめる。「私がいることを気取っていたのだろうに、何を驚く」
「いやいやいや、気づくわけないだろ。というか、どこから出てきたんだ」
「では、あれだけの内容を、一人でぶつぶつと呟いていたというわけか」思春は可哀想なものを見る目を一刀に向けた。「やはり、毒と熱とで頭が」
「違うって! 違うから! 違います!」
 必死に呼び止める声をよそに、思春はいつもの厳しい顔で一つ頷き、来たとき同様に音も立てず退室した。彼女の出入りで扉が開閉し、美味しそうなにおいが風に乗って流れ込んでくる。一刀の腹の虫はますます喚き立てるようになり、そちらに気を取られたせいだろう、どうやら彼は、思春が何のためにやって来たのかという疑問を抱かなかったらしい。
 ちなみにあれは、一刀の縛めを解くために渋々赴いてみれば、そこに予想以上の珍生物を見つけてげんなりした顔だった。そのあたりの細かい表情を、眠かろうが空腹だろうが察すことができるようになるには、一刀には経験が足りていない。加えて、二人の関係は未だ成熟していないので、この段階で感情を読み取れたとして、互いに愉快な結果となることはないだろう。
 彼らに必要なのは時間だ。酒と同じで、上手な歳の取り方をすればするほど、それは甘美な味わいになる。
 長い目で見た思春との関係にしても、短い目で見た現在の状況にしても、一刀の苦難はまだまだ続く。



 日はとうに落ちている。交代して空に昇った青白い月が、申し訳程度に部屋を照らしていた。
 縛られたままの一刀は、明かりの一つも灯せずにいた。正直なところ、存在ごと忘れ去られているとしか思えない放置ぶりだった。
 手足を長時間にわたって動かすことの出来ないもどかしさは、経験しなければわからないものだ。この扱いが故意か否かにかかわらず、ここまでやられれば、誰であっても二度と馬鹿なことをしようとは思うまい。
 きっと、同じくらいの反省を、祭やシャオといった彼の盟友たちも強いられている。自分には同じ苦難に立ち向かう同志がいるのだ。そんな不思議な共感が、一刀を支えているようだった。
 もちろん、ただの妄想かもしれない。
 しかし、そう考えると、なにもかもが妄想であるようにも思えてくる。疑い出せばきりがない。子供が死後の世界を想像して不安を覚えるのと、本質は変わらない。
 結局、いま目の前にある現実らしき世界の中で、精一杯生きることが大切なのだ。どういう仕組みによるものなのか、歳を取ると、そう思えてくる。
 目の前の世界に根を張ったのか、それとも感性が摩耗して鈍感になったのか。あるいは、自分が人なのか、それとも蝶なのか、無意識の部分で悟るのかもしれない。
 ……などと、柄にもなく真面目に考え込むに十分な静けさが、部屋には満ちていた。
 その静寂を破ったのは、硬質の音だ。
 敲かれたのは門ではなかったし、敲いたのは僧ではなかったが、月の仄かな明かりの下に響くノックの音は、当事者でなければ美しく聞こえるものだった。
「入ってまーす」
 一刀の微妙な返事を得て、ぎぃ、と軋む音。
 扉が開く。 
「あの……」と不安げな声。
 姿を現した少女は、呉の首脳部の数少ない良心である。また、真面目で努力家な彼女は一刀の勉強仲間でもあり、二人は得意分野が違うので、互いに互いをサポートする関係でもあった。
「亞莎か」一刀は安堵のため息をこぼした。「……良かった。助かったよ。ようやくまともな人が来てくれた」
 暗闇の中、亞莎の顔は、一刀の声が発せられた方へ向く。
 モノクルの向こうで目が細められた。そうすることで、どうにか一刀の姿を見つけたようだった。視力の関係で元々目つきが厳しい彼女だが、ほとんど睨み付けるような状態だ。しかし、暗闇故に一刀からはその様子が確認できず、また見えたとしても気にはしないだろう。
「その、一刀さまをお助けするようにと穏さまに命じられたのですけれど……」
 恐らく、穏は今の今まで忘れていたのだろう。
 一刀は何とも言えない顔をした。もちろん亞莎からは見えない。
「うん、助けてほしいんだ」
「えっと」亞莎は戸惑い混じりに言葉を濁した。
「どうかした?」
「あの……、私は何をお助けすればよいのでしょう?」
「え? あ、穏が何も教えなかったのか。まったく……」一刀は一人で納得の声を漏らした。「いや、亞莎に頼みたいのは手助けじゃなくて、文字通り救出なんだけど、ごめん、まずは明かりをつけてくれれば全部わかると思う。机の上にセット、じゃなくて、えっと、道具一式が揃えて置いてあるから」
「はい」
 部屋を訪れたところ寝台の上からいきなり命令されたに等しいだろうに、彼女は一刀の指示に素直に従い、机に近寄る。そして、手探りで石と蝋燭を見つけ出した。
 火が灯り、揺らめく明かりがぼんやりと室内を照らす。
 亞莎は自分の身体で光を遮らないように一歩横に動きながら寝台に振り向いた。
「……っ!?」びくん。寝込みを襲われたウサギを思わせる動作で、亞莎の細い体が跳ねた。目が驚きに丸くなっている。「そっ、それは……?」
「助けてほしいっていうのはこういうわけ。昼ごろからずっとで、もう手足が」
 暗闇ではよくわからないが、どうやら鬱血しているようだった。
「は、はい、今すぐ解きます!」亞莎は小走りで一刀に近寄り、ロープの結び目を探す。しかし、すぐに困り顔。「その、一刀さま」
「うん?」
「結び目がきつすぎるので、縄を斬ってしまっても構わないでしょうか?」
「ああ、頼むよ」
「わかりました。それでは、失礼します」
 亞莎は懐から、慣れた仕草で短剣を取り出す。そして、手足を後ろに一纏めにして縛られていた哀れな男を、あっという間に解放した。
「ふぅ……、助かった。ありがとう、亞莎」
 一刀は久方ぶりに手脚を伸ばし、顔をしかめた。固まっていた関節が急に動かされたせいで、体の至る所から文句が出ているのだろう。しかし、それも数度と曲げ伸ばししている内に収まり、やがて彼は大きな深呼吸をした。
 一方の亞莎はというと、そんな一刀の様子を心配そうに、けれどもどこか微笑ましげに見つめていた。
 元は武官としての働きぶりで取り立てられたという彼女だが、戦場の香りを少しも感じさせない穏やかな佇まいも様になる。そして、そこに一刀の前に立つときだけ見せる少女としての一面をブレンドすると、現在の可愛らしい亞莎ができあがる。それが彼女のデフォルトであると信じている一刀は、だから周囲の女性からしてみれば些かの鈍さを持つ男であった。しかし、既に愛が屋烏にまで及んでいるのか、それとも単に趣味の問題なのか、実に不思議なことではあるが、呉の女傑らはそんな所を含めてなお彼を好いているらしい。
 故に、
「さて、どうしたものか。……あ、そうだ、亞莎はもう夕飯食べた? まだなら一緒にどう?」
 などという提案を受けた亞莎が残念そうに眉尻を下げれば、それが何より雄弁な答となる。
「すみません、先に頂きました」
「いや、謝ることじゃないよ」一刀は苦笑する。「けど、参ったな。亞莎が俺のところに来られるってことは、もう結構遅いんだよな」
 亞莎――呂蒙という人間は、呉という国家の中枢に組み込まれている。すなわち最も忙しい一人であり、彼女の手が空く時刻ともなれば、まず間違いなくほとんどの施設は機能を停止し、明日のための眠りに就いている。厨房や市場も例外ではない。
「えっと、その……、ごまだんごでよろしければ、私の部屋にいくつかあるのですが」亞莎がいった。切り出すまでにわずかな逡巡があったのは、夕食に相応しくないのではないか、と思い悩んだのだろう。好物だからと出し渋るような性格ではない。
「それは嬉しいけど、いいの?」
 亞莎が駄目だ、と答えるはずがない。だからというわけではないが、別の妨害が入った。
「へい、周泰ひとつお待ちぃ!」
「うおっ!?」
 気が違ったとしか思えない台詞と共に駆け込んできたのは、自己申告通り明命だった。
 静かな夜間に、扉越しとはいえ廊下を走る足音一つ聞こえなかった。これは決して一刀と亞莎の話し声のせいではないのでござる、ニンニン。
「み、明命? どうしたんだ?」一刀は背後に亞莎を庇いながら尋ねた。笑みを作ろうとして失敗したのだろう、頬が引きつっている。有り体にいって、ドン引きしていた。
 敵を警戒する猫のように自分を出迎えた二人を見て、明命は眉尻と肩を盛大に落とした。彼女にお猫様の尻尾や耳があれば、それも力なく垂れていたであろう。
「……雪蓮様からご命令を頂いたのです。一刀様のお部屋には、あのように叫びながら入れと」
「雪蓮が?」
 呉首脳部で行われるパワーハラスメントの実態が明らかになりつつあった。
 それにしても、無体な王命を下す雪蓮も雪蓮だが、素直に従う明命も明命である。もちろん、それが彼女らの魅力の一つであることは今さらなのだが。
「それで、雪蓮はなんだって? まさかあんな台詞のためだけに明命を寄こしたわけじゃないだろ」
「はい、それだけだったら悲しすぎます」すっかり意気消沈していた明命だが、続きを促されてて表情が真面目なものに変わった。「一刀様へのお言伝を預かって参りました。一刀様には、夕食を取らずにお部屋でお待ち頂きたい、とのことです」
「むぅ……」一刀は唸った。「時間はどのくらいかかるか聞いてる?」
「しばらくかかるそうです」
「し、しばらく?」
「はい。しばらく、です」
「しばらく、ね……」
 政務に追われる雪蓮をしばらく待つと朝日が昇っていた、という事態がないとはいいきれない。
 一刀の腹の虫は省エネのためか、それとも飢えて死んだのか、いつの間にか鳴くことすらしなくなっていた。ここまで来れば、しばらく待つのも明日の朝まで待つのも同じこと。そう判断したのだろう、仕方ないな、と呟き、彼は二人を見た。
「とりあえず、伝言ありがとう、明命。それに、亞莎も改めてありがとう。二人とも、せっかく来てくれたんだ、急ぎじゃないならお茶ぐらい出すから、飲んでいって」



 私が淹れます、いえ私が、それじゃ意味ないだろ、といったやり取りがはじめにあったものの、お茶の席自体は非常に穏やかに進んだ。上ったのが仕事に関係のない話題だったのも良かった。市で評判の屋台や最近見つけた甘味処、仕事仲間の間で流れるたわいのない噂話。毒にも薬にもならないそれらが、お茶の香りと相まって、昼に酷使した頭脳や身体を鎮めるに一役買ったのだ。丸半日縛られていた一刀にしても、同席する二人の和やかな表情を見られただけで価値あるひとときだったに違いない。
 ほっと一息つけるお茶会は、しかし既に夜遅いということもあって、すぐに解散となった。亞莎と明命は去り際まで、一人空腹のまま残される部屋の主に気を遣っていたが、だからといって引き留める一刀ではない。
 それからの一時間ほどは、密度が小さくなった部屋で使用済みの湯飲み二つを前に一刀が悶々としている内に、あっさりと過ぎ去った。
 そして、待ちに待った雪蓮がやって来た。
「一刀? あら、ちゃんと起きてた。偉い偉い」
 にこにこと笑う彼女の手には、大きな包み。そこから放たれるいいにおいを敏感に察知して、どうやら仮死状態になっていたらしい一刀の腹の虫が目を覚ました。
 雪蓮は深い空色の瞳を丸くし、それからげっそりとした一刀の顔と鳴き声を上げた腹とを交互に見て、くすくす笑う。もうそれだけで長い間放置されていたことを忘れてしまえるほどの、それは素敵な笑顔だった。
 この国で一番の笑顔にしばし見惚れていた一刀であったが、思い出したかのように動きを取り戻し、雪蓮を椅子に座らせた。そして、彼女が机の上に料理を広げている間にお茶を淹れ、自分も席に着く。
「お疲れ様。今まで仕事だったんだろ?」
「そうよー」雪蓮はわざとらしく笑みを濃くする。「どこかの誰かさんが逃げ出したりしたから、それを捜索しただけ時間がずれ込んじゃって、それで来るのがこんな遅くになったの」
「うーん、きっとその誰かさんは今頃すごく反省してるだろうから、許してやってくれないかな」一刀は両手を机について、土下座をするように大きく頭を下げた。「この通り!」
「別に仕事が遅れたことについては怒ってないわよ。朝から働き詰めだったから、息抜きみたいなものね」
「えー。あのときの冥琳なんか、明らかに目が笑ってなかっただろ」
「あれは私が半ば無理矢理連れ出したから。冥琳の仕事が一番重要だってことはわかるけど、朝から晩まで休まず働いてたら体を壊しちゃうでしょ? ただでさえ……」
 不自然に途切れた言葉に、一刀は首を傾げる。この時の彼は、冥琳の体が病に蝕まれていることをまだ知らない。
 雪蓮は誤魔化すように首を振った。
「なんでもないわ。ほら、食べよ?」
「ああ、うん。美味そうだ」一刀は湯飲みを差し出す。
 並べられた料理は二人分とは思えない量だったが、昼食抜きの一刀と一日中机に向かっていた雪蓮の二人にかかれば、さほど多いものではないだろう。
 二人でいただきますをしてから、一刀はさっそく箸をのばした。彼は最高の調味料を共に黙々と食べ続ける。まるでブラックホールか何かのようなそれを、対面に座った雪蓮が幸せそうに眺めている。
 かき込む作業を続け、空腹と判断される最低限のラインを脱した一刀は、そこでようやく視線に気づいて顔を上げた。
「あ、お酒の方がよかった?」彼は雪蓮の湯飲みを指して尋ねた。
「ううん、そのつもりなら最初から持って来てる。飲みたいのは山々なんだけど、最近冥琳がうるさくって」
「うるさくいわないだけで、みんな心配してるよ。雪蓮が体を壊す飲み方するなんて思わないけど、心配なものは心配だからね」
「そう、心配なものは心配なのよ」雪蓮は不満げに頬をふくらませた。シャオとそっくりな可愛らしい表情になる。「それがわかるから私はお酒を控えてるっていうのに、一刀は部屋から抜け出して剣を振り回してるんだもん」
「さっき怒ってないっていってたじゃないか」一刀は苦笑した。
「怒ってないのは仕事が遅れたことについて。逃げ出したことには怒ってたの」
 彼女の怒りが過去形なのは、言葉よりも表情からよく読み取れた。大人の度量というよりも、子供の気まぐれに近いように思えるが、本当のところはどうなのだろう。唯一わかることは、どちらであってもそれを魅力としてしまえる不思議な力が彼女には備わっているということだけだ。あるいは美化のしすぎかもしれないが、それは仕方のないことである。
「心配しすぎだって返せる場面じゃないよなぁ……」一刀は頬を掻いた。「でも、まさか雪蓮に怒られる日が来るとは」
「仕方なく、よ。みんなして甘やかすんだから」
「蓮華なんかはけっこう厳しいよ。よくシャオと一緒に叱られる」
「本当にそう思ってる?」探るような、試すような声色で雪蓮が尋ねた。
 一刀はすぐに、降参するかのように体から力を抜き、背もたれに体重を預けた。
「実は最後の最後で一番甘いのが蓮華だと思ってる」
 雪蓮は満足げに頷いた。
 その通りで、ここ一番というときに一刀が及び腰になれば、手段に違いはあれど、皆は一刀を前進させるための行動を起こすだろう。しかし、蓮華だけはため息をつき、代わりに自分が行うといい出すようなところがある。そんな彼女に情けない姿を見せたくない気持ちに背中を押され、最終的には一刀も進むことになるのだが、それは結果論でしかない。だからこそ、逆説的に一番厳しいと見ることも出来るが、それは穿ちすぎである。
「ちゃんとわかってるじゃない」
「そりゃあわかるさ……。それに、雪蓮の妹なんだから、優しいに決まってる」
「あら」雪蓮は予想外の切り返しに目を丸くし、それから面白そうに笑った。「私は優しくなんかないわよ?」
「まあ、そういう風にいう人もいるかもしれない。目立つのは、戦場での怖いというかかっこいい姿だからね。でも俺は、ほら、手を伸ばせば届くほど近くにいるから、雪蓮が優しいのも、雪蓮のかっこいいところが蓮華にも受け継がれてることも、よく知ってるんだ。他にも、悪戯で自由奔放で甘え上手なところなんかは、シャオがそっくりだってこととか」
「一刀……」
「いや、この世界だと、雪蓮がシャオに似てるのかな……。まあ、だからってわけじゃないけど……、雪蓮がどれだけ心配してくれたのかもよくわかる」一刀は疲れたように肘を机につき、両手の平で顔を覆った。そして、呼気と共に絞り出したような声でいう。「わかってしまうんだよ。俺も心配したから」
 急変した彼の様子に戸惑いを見せつつ、雪蓮は顔をのぞき込む。
「一刀?」
「あの毒は、一度受けてしまえば、助かるようなものじゃないんだ。何日も苦しんだりはしない。調べたから、よく知ってる。それに、実物を目の前に見たこともある。だから、俺がここにいるのは、おかしいんだ」
「何をいってるの? 一刀はいま、ここにいるじゃない」雪蓮は手で一刀の頬に触れる。
「うん。そして、それはおかしい」一刀は雪蓮の手に自分の手を重ねた。「そんなおかしい世界が、あり得ないはずの世界があるっていうのは、誰かが見たいと願ったからなんだ、北郷一刀と雪蓮が共に生きることの出来る世界を」
「誰か?」
「そう、その誰かは、雪蓮がお母さんの墓前で毒矢に倒れた世界を知っているし、最初からずっと俺たちを見てもいる。それに、ここまで長々と見続けたってことは、この世界を悪くないって思ってるんじゃないかな。……でも、もういいだろ?」
 北郷一刀は振り向き、
「こんな都合のいい世界なんてどこにもないってことは、おまえが一番よく知っているはずだ」
 こちらを見て、
 を見て、
「これは、未練だよ」
 哀れむように、そう告げた。

 世界が崩れた。



 こうして、
 私は、夢から覚めた。



 あのとき、北郷一刀が雪蓮を庇いつつ、両者共に傷を負わずに生き延びたとしたら、襲い来る魏の脅威を追い返すことは出来なかった。
 曹操は、手綱を握りきれなかった刺客を恥じ、自ら退くだろう。呉は、王へと放たれた刺客に怒り、曹操を退かせただろう。そうして、その場だけは凌げただろう。
 しかし、その後は、同盟国たる蜀との連携を取る暇も与えられず、圧殺というに相応しい最期を遂げることになる。恐らく、赤壁の戦いすら起きずに終わったはずだ。
 刺客を放ったという風評だけでは、あのときの曹操を止めることは出来ない。少なくとも、呉の王か天の御遣いのどちらかが実際に傷を負い、倒れる必要があった。
 倒れたのが前者であれば、その後の展開は今さら語るまでもない。倒れたのが後者であれば、優秀な呉の頭脳たちのことだ、天の御遣いの名を最大限に利用し、曹操の民を誑かし、大きな時間的余裕を作り上げただろう。
 しかし、そうなれば、呉の将来と交換する形で、どちらかの命が失われる。
 毒を受けた上で生き延びる道は、都合のいい夢の中にしか、ありえない。
 現に、雪蓮の命は失われている。
 それこそが、この私の、
 否、
 この俺の、
 北郷一刀の、生涯においての最大の後悔である。
 呉という国のために、身を削る思いで努力した。そうする内に子が生まれ、彼らは大人になり、俺は老いた。情を交わした女たちは皆先に逝き、一番に軟弱であったはずの自分が、最後まで生きながらえた。
 しかし、もう長くはない。最近では、起きている時間の方が短くなっていた。
 俺は、そんな現状に、満足している。
 国は栄え、民が戦に苦しむことのない時代だ。それを実現するための半生は、悪いものではなかった。
 だというのに、
 悪いものではなかったはずなのに、いまでも夢に見ることがある。
 雪蓮が死なずに済んだ世界を、俺が雪蓮と共に生きる世界を、紗がかかったように煙り朦朧とする意識の中、必死に想像している。
 まるで、もう一つの現実の中にいるかのようにリアルな世界で、俺は雪蓮と笑い合い、
 けれども、ふとした拍子に、それを背後から見ている冷静な自分に、気がつくのだ。
 そうして目が覚めたときは、決まって胸が苦しい。
 罪悪感か、それともただ寂しいのか。
 月の見える暗い部屋。
 隣を見る。
 そこには、誰もいない。
「しかし……」嗄れた声で、俺は独り言をする。「今回は、やけに賑やかだったな」
 あの激動の時代を共に生きた皆が勢揃いしていた。いつもは、数人がせいぜいといったところだというのに。
 祭、シャオ、蓮華、穏、思春、亞莎、明命、そして雪蓮。
 一人も欠けるところのない、豪華な―――、
「……おい、冥琳がいないぞ」
 たしか、脱走した三人を捕らえに来た中にいたが、思えば、一度も言葉を交わさなかった。蓮華とも、言葉を交わしたとは言い難い、一瞬の邂逅であった。
 どうしたことか、と考えた刹那、素敵な思いつきが閃光のように生まれた。
「そうか。俺を迎えに来ようとした連中を、頑張って引き留めていたのかな」
 その光景を想像し、思わず口の端が持ち上がる。
 二人とも、真面目かつ責任感が強いので、ストッパーの役目を割り振られることが多かった。酔っぱらってケラケラ笑いながら俺を幽冥に引きずり込もうとする連中を、肩を怒らせ叱り飛ばしているのかもしれない。一方で、当の俺はといえば、既にいつ迎えが来てもいいよう準備ができているというのだから、冥琳にしても蓮華にしても、本当に損な役回りである。
「ああ……、会いたいなあ」それが未練でもよかった。
 なんだか眠たくなってきた。
 目を瞑る。
 次は、どんな夢であなたに会おう。

 意識が、静かに消えた。




モドル